苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

安息の年

通読箇所マルコ4:10−34、レビ25章

「地を安息させるならあなたがたの食料のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。」レビ記25:6

 レビ記25章には7年ごとの安息の年、これを7回繰り返して49年目の翌年のヨベルの年の定めが出てくる。地の安息の目的は「あなたがたの食料のため」であるという。農地を休ませることなく収穫を続けていくならば、目先は儲かるけれども、長い目で見ると、結局、土はやせ衰えて病気が発生して収穫をすることができなくなる。かつて沃野だったというメソポタミアの地の砂漠化はその一例(少々複雑なプロセスを経ているが)。
 南佐久という高原野菜の大生産地に暮らし、自分でもミニマムというかマイクロの畑を営んでみて、それがよくわかる。日本中の農地はどこもかしこも国の農業政策の「この地域はこれが特産品」という産地主義によって、連作障害が起こってしまい、それを土壌消毒剤というものでごまかしごまかし営んでいるのが現状である。それでも、作物に病気がでてどうしようもなくなると、土を入れ替えるという作業をする。しかし、客土の畑はどういうわけか、また連作障害が出やすい。
 農地は定期的に休ませ、地力の回復を図らせなければならない。それが創造主がお定めになった農業運営の基本である。目先の欲にかられ、効率主義、経済第一主義というものに追い立てられて、創造主の定めに背いて目先の徳を得ようとして、結局、元も子も失ってはならない。安息日、安息の年、十分の一・・・みな同じ原理。
 これは農業だけのことではない。「今だけ、俺だけ」という現代日本の風潮の中に巻き込まれ、自らを滅ぼしてはならないと、主のみことばが私たちに警告している。