苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

最も小さい者

通読箇所 マタイ25:31-48、出エジプト37,38章

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
マタイ25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 本来、この箇所で主イエスが「わたしの兄弟たち」として意図したのはだれか。

12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 「兄弟姉妹」とは、主イエスを信じて「天の父のみこころを行う人々」のことである。では、その中で主イエスがいう「最も小さい者」とはだれを意味するのだろうか?このことについて、主イエスは十二弟子を町町に派遣することば(マタイ福音書10章)の結びでお話しになった。

「10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。・・・ 10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 主イエスがいう「小さい者」「最も小さい者」とは、主イエスが町々に遣わした福音の宣教者を意味している。後の初代教会でいうならば、使徒パウロやシラスやバルナバのような人々のことである。彼らは伝道旅行の途上、しばしば、空腹で、渇き、宿がなく、着物がなく、旅路で倒れて病気になり、また福音のゆえに投獄された。主は彼らをご自分の使節として派遣なさったから、彼らへの扱いは、主ご自身への扱いを意味した。
 福音の宣教者として、自分が主の前に「もっとも小さい者」であることを忘れないようにしたい。