苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストとともに葬られる

マタイ27:55−60
1.女性たちが証言者として

 使徒信条において、私たちは「われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ」と告白します。ただ「死んだ」というだけでなく、「死にて葬られ」と告白するわけです。コリント人への手紙第一の15章でも、パウロは福音を説明するにあたって、「15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」であると、わざわざ葬られたことを告げています。主イエスは十字架で死んで、よみがえられた、というのでなく、十字架に死んで、葬られて、よみがえられたのです。主イエスが葬られたことは大事なこととして福音書で扱われています。
 葬りは死というものが、個人的な出来事ではなく、公的な出来事であるということを意味しています。たとえば、表で滑って転んでコンクリートの角に頭をぶつけて死んだとします。でも、誰にも知らされず葬式もせぬままことが過ぎて、来週教会にみなさんが来たら、「水草先生どうしたの?」ということになる。「さあ、どこにいったんでしょうね。蒸発しちゃったねえ。」ということになります。死というのは個人的なことではすまないもので、葬り、葬式というのは、その死が事実あったのですとして、死を公的な事柄とすることを意味しているわけです。
 主イエスは「死んで葬られた」。それは、主イエスはふと失踪したわけでなく、紛れもなく誰もが知っている事実として死んでしまわれたのでした。主イエスの死は公になった事実です。その主イエスの死という公の事実を証言する人として選ばれたのは誰でしょうか。それは、女性たちでした。

「27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。 27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。」

 とあります。彼女たちは確かに主イエスの死を確認しました。そして、三日目には今度は主イエスの復活の証人となりました。当時の男性中心主義のユダヤ社会では、女性は裁判でも証言能力があるものとしては認められなかったそうです。けれども、神様は、十二弟子ではなく、他の偉い人々でなく、この主イエスを慕ってガリラヤからついてきた女性たちを証言者としてお選びになったわけです。小さい者が選ばれたのです。


2.アリマタヤのヨセフ

さて、主イエスが十字架で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と叫んで十字架に果てると、彼女たちが眺めていると、彼女たちとは違って、お金もあり社会的地位もある人物が十字架の下にやってきました。そして、イエス様のおからだを取り下ろし始めたのです。

  27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。

 
(1)イザヤ53章の預言の成就
 この出来事は、旧約時代、紀元前8世紀の預言者イザヤが告げた預言に書かれていたことの成就でした。イザヤ書53章9節に次のようにあります。

「53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
  彼は富む者とともに葬られた。」

 不思議な預言です。この預言者、主イエスが犯罪人たちとともにゴルゴタの丘で十字架につけられ、そして、死後、アリマタヤのヨセフというユダヤ最高議会の議員に引き取られて、彼の用意していた新しい墓に葬られたときに成就したのです。
 預言が成就したということは、主イエスの死も葬りも、たまさかに起こったことではなく、神のご計画の中にあった出来事だったということを意味しています。


(2)アリマタヤのヨセフという人物
 アリマタヤのヨセフという人物についてみて見ましょう。ヨセフについては四つの福音書いずれにも取り上げられています。

マタイ27:57「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。」

マルコ15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

ルカ23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。 23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

ヨハネ19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。


 ヨセフはアリマタヤというユダヤ人の町の出身で、金持ちであり、ユダヤ最高議会の議員という社会的な地位と名誉も兼ね備えた人でした。ルカ伝はヨセフは「りっぱな、正しい人」だったと記していますから、お金と地位と名誉があるだけでなく、その人柄も立派だったというわけです。ルカという医者は、いろいろな人物評においてに優しさがにじみ出ていますが、ここでもそうです。また、福音書記者ルカは、ヨセフは主イエスをなき者にしようとする「議員たちの行動に賛成していなかった」という微妙な表現をしています。他方、ヨハネ福音書は、そういうヨセフが「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と厳しい調子で記しています。ヨセフは、たしかに心のなかで議員たちの行動に賛成していませんでしたが、さりとて反対したわけでもなく。中途半端な態度を取り続け、隠れキリシタンでいたわけです。なぜでしょうか?もしヨセフが「私はあのお方が正しいと思う。あのお方が解いていることは真理であるし、私たちが偽善的な間違いを犯していることは事実ではないか。私はあの方の弟子なのだ。」と公に表明すれば、ユダヤ最高議会の議員の資格を剥奪され、会堂からも追放されてしまうことは火を見るよりも明らかだからでした。
 彼はイエス様を信じるようになってから、恐らく「私は隠れ信者のままでやり過ごそう。心の中でイエス様をひそかに信じていて、かげながら応援していればいいじゃないか。事を荒立てる必要はない。」というふうに考えていたのでしょう。しかし、サタンは、そのように態度を曖昧にしている者を自分の仲間に取り込んでいくものなのです。主イエスエルサレムに入城なさってから、事態は急展開していきます。ユダヤ最高議会は、ゲツセマネの園でイエスを逮捕し、議員たちをカヤパの官邸に召集して、裁判にかけてしまいまったのです。改めて、その箇所を開いておきましょう。マルコ14:61-64

「14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。」

 あの裁判の最後、主イエスはイエス様がご自分が神の御子キリストであり、やがて世の終わりには再び戻ってこられて世界をさばかれるのだと証言なさいました。大祭司カヤパと議員たちは全員でイエスを死刑に定めたとあります。
この時ヨセフは何をしていたのでしょうか?もしそこに出席していたならば、周囲を見回して、心ならずもイエスを死刑にすることに賛成したということです。もし、そうでなかったとすれば、ヨセフは自分に難が及ぶことを恐れて、「今晩は、都合があって出席できません」と言ってズル休みしていたということになります。ヨセフは立派な正しい人だったとルカは記していますが、立派な正しい人であることの限界にヨセフは突き当たり、挫折したのでした。いずれにせよ、彼は神の御子イエスを裏切った臆病者でした。
 さて、イエス様はピラトの法廷に送られ、そこでも死刑判決を受け、十字架を背負ってゴルゴタへと歩んでゆかれ、午前9時に十字架に張り付けにされ、午後3時にいのちを終えられたのでした。その一部始終をアリマタヤのヨセフは見てきました。主イエスが「父よ。彼らを赦してください。」と祈られたとき、この裏切り者の私のためにも主は祈ってくださった、と思ったでしょう。そして、ついにヨセフは決断したのです。
マルコ伝には、こうあります。

「マルコ15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。」

 ヨセフは主イエスに従う決断をしました。このとき、ヨセフは主イエスを葬ったばかりでなく、自分自身をもこの世に対して葬ったのでした。当時の状況から推測すれば、ヨセフは、サンヒドリン議員としての地位も名誉も、恐らく富も剥奪されたにちがいありません。しかし、彼が失った富と名誉と権力は、彼が手に入れたキリストにある宝に比べれば、実に、ちりあくたにすぎませんでした。永遠の命は主イエスにあるのですから。
 主イエスのなきがらを抱き下ろして、ヨセフは悲しみを感じつつも、同時に、主イエスに従うことができたという深い喜びと、サタンが支配する罪と欲望の世界からの解放感を感じていたにちがいありません。彼は、キリストに結ばれて、この世の束縛から解放されて、神の支配のもとにあって自由を得たのです。

 「6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」


結び
 主イエスに従おうとするとき、そこには障害がある場合があります。まことの神を知らない家族や親族、世間からの非難であるとか、ときには、それが社会的な地位や、過去の歴史においては命を失うことを意味することもありました。しかし、もしキリストの名のゆえに辱めを受けるということがあったとすれば、それは神の前に誉れあることです。多くの聖徒たちは、キリストの名のゆえにこうむる非難を喜びとしました。主イエスは、おっしゃいました。

「5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」

                           マタイ5:10-12
 私たちは、この世にあって、置かれた持ち場、立場があります。それは神が遣わしてくださった場であるとして、その場で神をあがめる生き方をすることが原則です。しかし、これからの時代、もし主イエスに従う上で、この世における名誉や富や立場を失わねばならない局面に置かれたなら、断然、名誉も富も放棄してキリストに従うことです。私たちの誇りは、ただキリストの十字架にあります。そして、キリストとともに死ぬものはキリストとともによみがえるのです。新聖歌101。

「十字架によりて われ世に死し
 十字架によりて 世われに死す
 君のいさお ほむべきかな
 十字架のほかは われ誇らじ」