苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン12月31日  牛舎の子牛のように

マラキ4:2
<口語訳>
しかしわが名を恐れるあなたがたには、
義の太陽がのぼり、
その翼には、いやす力を備えている。
あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

<新改訳>
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、
義の太陽が上り、
その翼には、いやしがある。
あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。

<新共同訳>マラキ3:20
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには
義の太陽が昇る。
その翼にはいやす力がある。
あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。

 この前には、主の恐るべきさばきの日の到来を告げることばがある。新改訳では、次の通り。

4:1 見よ。その日が来る。
  かまどのように燃えながら。
  その日、すべて高ぶる者、
  すべて悪を行う者は、わらとなる。
  来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、
  根も枝も残さない。
  ──万軍の【主】は仰せられる──

 これに対する「しかし」である。主を畏れ敬う者にとっては、主の日の到来は義の太陽が昇る日である、ということ。「焼き尽くし、根も枝も残さない」という表現はバプテスマのヨハネヨルダン川でのメシヤ到来を告げる口上を思い出させる。
 「義の太陽」、「牛舎の子牛」、「翼」というイメージが、バラバラだけれど、元気一杯で読んでいて力がわいてくる。
 「牛舎の子牛のように跳ね回る」というこの箇所を読むと、もう三十年ほども前の「日曜日訴訟」の澤正彦牧師を思い出す。主を畏れ敬うことを知らぬ人々のなかで、(それは必ずしも不信者だけではなかった)、宗教的人格権をめぐって困難な日曜日訴訟の原告となり、敗れて、そして病に倒れた澤師が、この「牛舎の子牛のように跳ね回る」というみことばを引いて話をなさったのを聞いたのだった。