苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン12月1日  落ち着き

詩篇62篇1節
口語訳>
わが魂はもだしてただ神をまつ。
わが救は神から来る。


新改訳>
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。
 私の救いは神から来る。


新共同訳>
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。
詩編62章2節

 「魂」はネフェシュ。直後に「神こそわが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。」を加えて、この一篇の中で二度繰り返される。 彼を非難し罠に陥れ引き摺り下ろそうとする輩が迫ってくるような状況のなかで、彼があわてず騒がずにいられるのは、彼がただ神を待ち望んでいるから。
 思い出すのは、荒野でコラが反乱を起こしたときのモーセの態度(民数16章)。コラはモーセを「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と非難した。その時、モーセはあえて反論せず、ただ主の前にひれ伏した。そして主の裁定を待った。もし事実、主が自分を立てておられないならば自分は退くべきであるし、もし事実主が自分を立てておられるならば、自分はその職責から逃れることはできない。いずれにせよ、何にしがみつくこともなく、ただ神を待つのみ、というところに与えられる落ち着き。