苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神岡キリスト教会宣教120周年記念礼拝(序と結び)

黙示録22章1-5節
いのちの水あふれる教会
2015年11月1日 神岡 120周年

「22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」


序 神岡キリスト教の主にある兄弟姉妹。宣教120周年おめでとうございます。日本同盟基督教団発祥の地飛騨の歴史ある神岡キリスト教会のたいせつな礼拝に、お招きいただいてたいへん光栄に思っております。私が仕えている小海キリスト教会の役員会では、ここしばらく『日本同盟基督教団史 第一篇』というのを一緒に読んでおりまして、先日、船津教会(神岡キリスト教会)についての記事でした。この群れの開拓者は、あのベルグストローム宣教師なのですね。
 昨日、水量豊かな神通川を見下ろす高山線の列車に揺られながら、「神岡」「神通川」という名を思い巡らしていました。実は、前々から準備していた使徒の働き2章からの説教を先の主日の夜になって、イエス様から「そこではないよ」と言われている感じがして、黙示録終章、いのちの水の川が流れるエルサレムの箇所に変更しました。来てみてわかりました。神の住まわれる岡、神に通じる川ですから。町を散歩すると、つねに水音がしていて、水屋がそこここにあります。黙示録22章のエルサレムのイメージと重なります。120年前、徒歩でこの深い山あいの町にはいったベルグストローム宣教師も、同じような感慨を抱かれたのではないかと思いました。

(本論省略)

結び
 来るべきエルサレム。これは遠い世界のことでしょうか。主イエスが再臨されるまでは、関係のない世界であると聖書は教えているでしょうか?そうではありません。私たちは信仰において、この世にあって、すでに天の御国の都の住民であり、神のしもべ、かつ、王として、奉仕に生きることが許されています。きょうも私たちは「御国をきたらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。この世に、神様のみこころが成るために、置かれた持ち場立場において、祈り、語り、行動してまいりたいと思います。
 町のあちらでもこちらでも水音がして、あちこちに「水屋」がある神岡はあのエルサレムみたいです。新しい天地の中心は、エルサレムでで、神と小羊の御座から流れ出る水が全地を潤すのです。この神岡町の中心はお城でも役場でもなく、神岡キリスト教会です。ここには神と小羊キリストの御座があって、神のことばが語られます。
 この礼拝堂で礼拝をささげるときは、次の世である天国の前味を味わうときです。毎週主の日ごとに、賛美とみことばの解き明かしによって神の御顔を仰ぐという至福の経験をし、いのちの水である聖霊に満たされるでしょう。そして、聖霊、いのちの水に満たされた兄弟姉妹のみなさんは、それぞれの家庭に、職場に、学校に遣わされてゆきます。それは、神と小羊の御座からあふれ流れて都を潤し新しい天と地をうるおす聖霊をみなさん一人ひとりが宿している、いわばいのちの水の宅配便として、遣われた場をいのちで潤すのです。
神岡キリスト教会のみなさんが、そのように、御国からあふれるいのちの水があふれ流れて周囲の社会をうるおしていくために用いられていきますようにと祈ります。