苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン10月14日 主は与え主は取られる

ヨブ記1章21節

口語訳
「主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。


新改訳
「【主】は与え、【主】は取られる。
【主】の御名はほむべきかな。」


新共同訳
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。

 すべての財産を奪い取られ、さらに愛する子どもたちを奪い取られたとき、ヨブは上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして、この言葉を叫んだ。私が聖書のことばの一節を衝撃をもって受け取ったのは、この箇所が初めてだった。高校を卒業し浪人をしていた晩夏、友人が貸してくれた三浦綾子さんの『旧約聖書入門』のなかで。私は、それで旧約聖書口語訳を本屋で手に入れた。この一句に「神は神であるから、あがめるべきである」というカント風の定言命法(損得を超越した人間の人間としての義務)を読んで感動したものだった。
 だが、それならヨブ記は2章以降、えんえんと続くのだろう。そして、ヨブは妻に呆れられ、ヨブ自身自分の生まれた日を呪い、勧善懲悪説に立つ友たちに悔い改めよと的外れな非難を受けなければならないのか。謎だった。
 そうして、ヨブは「なぜ、義人がこんな目にあわねばならないのか?」と問い続け、答えを得ず、神は神であり、人は人にすぎないことを痛切に知らされ、そのどん底で神に向かって叫び、ある瞬間、神と人との間を取り持つ方がいる、その方は地の上に立たれるという希望を持つ。
 突然、主は嵐のなかからヨブに語りだされる。しかし、主はヨブの問いには応えない。ただ、ひたすらに自身の作品である天地の被造物群のすばらしさを自慢する。特に、カバは第一の傑作だ(40:19)。・・・さんざんに神様の自慢を聞かされて、ヨブは主の前にひれ伏す。主は主であられる。だから、人は主の前にひれふすのだ。こうして最初の結論に戻る。だが、恐るべき経験を経て後の結論となっている。
 そして、そういうヨブが神から報いを賜るというところは、現実の生ける神は、カントの観念的な道徳の枠を超えている。