苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

旧制高等学校記念館・・・松本市あがたの森


 きのうの主日は、信州宣教区一斉講壇交換日で、私は松本に出かけました。朝の礼拝を終えて、兄弟姉妹といっしょに昼食をいただきながら、「松本城は何度も訪ねたんですが、それ以外に、松本で面白いところはありませんか?」と質問をしたら、「あがたの森の旧制高等学校記念館というのがありますよ。」と紹介してくださったので、立ち寄ることにしました。
 けやきや樅の巨木が生い茂る美しい公園は、もともと全体が旧制松本高校のキャンパスで、一角に深い緑のパステルカラーを少し落ち着かせたような松本高校の木造校舎が今も残っている。そばに記念館が新しい建物で併設されていて、一階はラウンジで、二階、三階が旧制高校にかんする展示室となっている。松本高校だけでなく、いわゆる一高から八高までのナンバースクールと、その後、作られていった各地の旧制高校にかんする資料、旧制高校の出身者の談話のビデオなどがあってなかなか面白かった。
 当時、旧制高校に進学できたのは同年代のわずか1パーセントにすぎなかったからエリート養成校で非常な難関だったが、旧制高校卒業生と大学定員とはほぼ同数だったから、大学へはすんなりと進むことができた。だから、旧制高校生たちは、つまらない、つまり非本質的な受験勉強のために人生の貴重な十代後半を塗りつぶされる必要はなかった。また、明治時代旧制高校に学んだ若者たちの多くは士族出身であったことが、「武士は食わねど・・・」「ぼろは着てても心の錦」というバンカラな気風をつくったらしい。彼らは、ボロ制服をまとい、マントを着て、腰に手ぬぐいをぶら下げて、そのポケットにはドイツ語のレクラム文庫を忍ばせて、というふうな風体をしていた。ボロはまとっていても、彼らは金持ちのお坊ちゃんで、将来のエリートでもあったから、なすいたずらも大抵はたわいないものであったから、町の人々も彼らに寛容であった。
 私が土浦めぐみ教会でたいへんお世話になった教会の役員さんに、T先生という方がいらした。高校の英語教員で、バッハを徹底的に聞き込むうちに教会に導かれるようになられたという方だった。先生は仙台にあった二高の卒業生でいらして、若い頃のことに話がおよぶと、弊衣破帽に高下駄で、友人たちと哲学書を論じ合ったり、ストームをかけたり、雪の仙台駅前でマントをかぶって一夜を明かしたりしたという思い出を実に楽しそうに語られた。乱暴で、自由で、真剣で、高邁な理想に燃えた、そういう青春時代だったということだった。T先生の同級生たちの多くは帝大・エリートの道に進んだが、先生は家の事情で進学ができなくなられたということだった。そういえば、神戸で私に洗礼を授けてくださったM牧師も旧制旅順高校の在学中に、敗戦を迎え、着の身着のまま帰国することになり、所期の道が閉ざされたという方だった。
 わたしの1970年代後半の高校・大学時代には、金儲けとは関係のない、難解な書を読んで教養を身に付けることによって人格は陶冶されるという旧制高校の「教養主義」の気風は、ほとんど消えていたが、就職よりも学問をという思いをもって文学部に入ってきたような連中のなかには、平均よりもそうしたものへの憧れは強かったように思う。