苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン9月28日  苦しみの意味

詩編119章67節
文語訳
われ苦しまざる前にはまよひいでぬ されど今はわれ聖言をまもる


口語訳
わたしは苦しまない前には迷いました。
しかし今はみ言葉を守ります。


新改訳
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
 しかし今は、あなたのことばを守ります。

新共同訳
わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。
今からは、あなたの仰せを守らせてください。

 今朝のローズンゲンも新共同訳が変わっている。文語訳、口語訳、新改訳とBible Hubに掲げられる21種の英訳はすべて「苦しみに会う前には私は過ちを犯しました。」であるが、新共同訳だけが「わたしは迷い出てついに卑しめられた」という。ことの順序をいえば、新共同訳も他の訳も、<迷い出る→卑しめられる>ということで同じだが、新共同訳は「前に(テレム)」ということばを訳出していないのが特徴。それによって、どういう意味のちがいが生じているだろうか?
 ヘブル本文にあるとおり素直に「前に」と訳出したばあい、「苦しみに会ったこと」が神の摂理の下に起こった教訓的出来事として理解されるが、「前に」と訳出しないと、その意味合いが薄れるということだろう。新共同訳は翻訳上いろいろ冒険をしているが、ここは成功しているとは思えない。
 「われらを試みにあわせず 悪より救い出したまえ」と祈りなさいと主は教えてくださったから、私たちは「きたれきたれ苦しみ 憂きなやみもいとわじ」とは祈らないのが賢明である。だが、私たちは神の前にあまりにも愚かであると、神に苦しめられてようやく、神に立ち返ることができる。神は愛であるから、迷い出た私たちをお見捨てにはならない。時には厳しく愚かにも迷い出た私たちを打って、目覚めさせ、立ち返らせてくださる。