苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神の統治

マタイ27:1−10
2015年9月20日

1.サンヒドリンの不正(権力の不正)

 主イエスが、自分は神の御子キリストであると「自白」したので、ユダヤ最高議会サンヒドリンは、イエスは神を冒涜する罪を犯したとして、死刑を宣告しました。サンヒドリンは祭司・立法学者・長老71名から成る、世俗・宗教両方面における議会兼法廷であり、当時、裁判長は大祭司カヤパでした。まもなく夜が明けました。

27:1 さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。 27:2 それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。

 とあるのは、先にも説明したことですが、イスラエルローマ帝国の属州という立場にあって主権が制限されており、そのため、ユダヤ最高議会は、被告を死刑と宣告しても、ローマ総督も了解してくれなければ死刑にすることができなかったからです。
 ところが、今回のイエスの罪状について、サンヒドリンは単純に上級のローマ総督に告発することはできませんでした。なぜなら、イエスの罪状は<自分を神の御子キリストであると宣言した>ということだったからです。ユダヤ人たちにとっては、自らを神と権威の等しい者とすることは紛れもなく、涜神罪で死刑にあたりましたが、ローマの法廷ではこの種のことは扱わないことになっていたのです。もともとイタリア半島都市国家にすぎなかったローマは、カルタゴ戦争をきっかけに急速に版図を拡大して多くの民族を抱え込む大帝国になりました。それぞれの民族にはそれぞれの宗教がありましたから、それらの宗教の教えについていちいち判定しようとするならば、かえって混乱を大きくすることは目に見えていました。ですから、宗教的なことについての訴えについては、ローマ帝国総督は門前払いするのが常でした。
 ですから、サンヒドリンの祭司長、長老たちはピラトに「イエスは自分を神の御子キリストです」と訴えたとしても、ピラトは取り上げてくれないことは目に見えています。だから、「イエスを死刑にするための罪状を何にしようか?」と協議したわけです。捏造した罪状は、<イエスは自分をユダヤ人の王だと称して、ローマ帝国への反逆を企てて、多くの群集をまきこんでいる>と訴えることでした。騒擾罪とか反逆罪とかいう訴えです。
 サンヒドリンはユダヤ最高議会、最高裁判所です。ところが、イエスに関する裁判においては実にでたらめなことを行ったことです。まず夜間の裁判は禁じられていたのにイエス様を支持する群衆が騒がないようにと夜間に裁判を行い、裁判所自体が法廷には偽証人たちを立て、判決が出ると、ローマ総督に訴え出るその判決理由も別のことがらを捏造したのでした。裁判所というのは、社会が公正に保たれるための最後の拠り所ですが、その拠り所が不正に染まってしまっているのです。
 こうしたことを詳しく記録して、聖書は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。それはこの世の権力が根本的に罪に落ちサタンの影響を受けているのだという現実を認識せよということです。聖書は一方では「上に立てられた権威」は、神が立てたしもべとして、彼らを尊重しなさいと命じていますが(ローマ13章)、他方で、この世の権力をサタンが操ることがあるのだとも教えていますから(黙示録13章)。ですから、私たちは国家の為政者が道を踏み誤らないように祈らねばなりませんし、無条件で従うべきではありません。時には国家権力の不正を糾すのもキリスト者の務めの一つです。
 神の御子イエス・キリストが来られたとき、悪魔は必死になってイエスを亡き者にしようと、ユダヤ最高議会という権力を手先として用いて画策したのでした。裁判官たちまでも悪に染まり、悪魔が好き放題に彼らをコントロールしています。神の御子は彼らの手によって、もみくちゃにされてしまいそうです。この世は暗闇の力によって支配されているかのようです。

2.イスカリオテ・ユダ

 祭司長、長老たちが「どのようにしてローマ総督を説得して、イエスを死刑にさせようか」と悪い相談をしていた、その場に、イスカリオテ・ユダがやって来ました。彼は、数日前、先に祭司長、律法学者がどうやってイエスを殺そうかと相談していたところに飛び込んで、「わたしはナザレ人イエスの弟子です。金をくれたらイエスをつかまえるための手引きをしますよ。」と言ったのでした。そうして得たカネが銀貨わずか三十枚。当時の奴隷の値です。
 そうしてユダは大祭司の手下たちをゲツセマネに案内して、「憎しみの接吻」でイエスを売り渡したのでした。ところが、実際にイエスが逮捕され連行されカヤパの屋敷で裁判にかけられて、死刑と定められたと知ったとき、ユダは後悔したというのです。そうして、彼らのところに金を返しに来たのです。いったい、ユダはどういう積もりで主イエスを敵に渡したのでしょう?
ある人は、「ユダがイエスを敵に引き渡したのは、イエスローマ帝国の支配をくつがえしダビデーソロモン王朝を復興させるべきお方であるのに、なかなか決起しようとしないので、イエスを立ち上がらせるためであったからではないかと推測しています。また、そうした推測に基づいて映画化したりもしています。ところが、イエスは逮捕されると抵抗もせず、むざむざと死刑に定められてしまったので、ユダは後悔して、銀貨30枚を返して自殺してしまったのではないか、というのです。そかもしれませんが、ことの真相を断定するには証拠が少なすぎます。
ただはっきりしているのは、ユダはペテロとは違って、後悔はしたけれど、神の前に悔い改めることをしないまま、首をつって滅びてしまったということです。

  27:3 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、 祭司長、長老たちに返して、 27:4 「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と言った。 27:5 それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。

3.サンヒドリンの偽善

 神殿に投げ入れられた銀貨30枚について祭司長たちは、「これをどう扱ったものか、と相談しました。

27:6 祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言った。
27:7 彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
27:8 それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。

 「血の代価」というのは、祭司たちの側からいえば、憎いイエスを捕まえて十字架で血祭りに挙げて殺してしまう謀(はかりごと)のために支払った金という意味です。そんな汚い金を神殿の金庫に入れるのはよくないと考えたというのです。それは聖なる神殿をけがすことになるから、というのです。祭司長たちの念頭には、旧約の申命記の律法が浮かんだのであろうと思われます。

「23:18 どんな誓願のためでも、遊女のもうけや犬のかせぎをあなたの神、【主】の家に持って行ってはならない。これはどちらも、あなたの神、【主】の忌みきらわれるものである。」

 「遊女のもうけや犬のかせぎ」というのは、神の前に罪深いことをしてもうけたカネという意味です。イスカリオテ・ユダは、自分の先生を裏切り敵に売り渡すことで30枚の銀貨の報酬を得たのだから、これは汚らわしいカネである。それを神殿の納入金にするわけには行かないというのです。
 ああ、なんという偽善、なんという欺瞞でしょうか。その罪深いユダにカネを支払ったのは、祭司長・長老たち自身ではありませんか。イスカリオテ・ユダのしたことが汚らわしく罪深いことであるというなら、そのためにカネを払った自分たちがそれと同じ程度に汚らわしいことがなぜわからないのでしょうか?権力をもった人々の欺瞞、とくに宗教的偽善というもののそら恐ろしさを感じます。
 イエス様がガリラヤで伝道なさっていたとき、ある安息日に会堂に出かけられました。みことばを語っていらっしゃると、一人の手のなえた人がしょんぼりしておりました。みことばを語り終えると、イエス様は、その人に真ん中に出てくるようにいって、その弱弱しい手を健全にしてやりました。と、そのとき、律法学者たちが「安息日に仕事をした」と言ってイエスを非難しました。主は「安息日にして良いのは、良いことなのか、悪いことなのか。いのちを滅ぼすことなのか、それとも生かすことなのか?」と問われました。そうすると学者たちはグーの音も出なくなりました。そうして恥をかかせられたということで、イエスを殺す相談を始めたとあります。「安息日にしてはいけないこと」をさんざん研究してチェックしていた彼らにとっては、人殺しの相談はしてよいことのようでした。なんという逆さまでしょうか。
 今回のサンヒドリンでのイエスに対する裁判は、彼らの偽善・倒錯の総仕上げのようなものでした。


4.神の統治

 主イエスのみそばで三年間仕えてきたイスカリオテ・ユダの裏切りと自殺、そして、ユダヤ最高議会サンヒドリンの欺瞞ということを見てきて、私たちは暗澹たる思いにさせられます。聖なる神の御子イエスは、ほんとうに罪深い世界においでくださったのです。どうにもならない人間の欲望、裏切り、後悔と自殺。この世の正義を守るため法を司る権力者の腐敗。
 しかし、次の9節に不思議なことばが記されています。ここが大事です!

27:9 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。 27:10 彼らは、主が私にお命じになったように、その金を払って、陶器師の畑を買った。」

 旧約時代の預言者エレミヤの書物に記されていることが、イスカリオテ・ユダとサンヒドリンの振る舞いにおいて成就したというのです。聖書記者マタイは何を言いたいのでしょうか。悪魔と悪人たちが我が物顔に振舞っているように見える、その状況にあって、実は、聖なる神のご計画が着々と進められていくのだという摂理の真理です。神の摂理とは、神のもっとも賢くもっとも力強い、被造物を保持し、統治するお働きを意味しています。悪魔は私たち人間よりもはるかに知恵のある霊的存在ですが、その悪魔がやりたい放題に振舞っているような状況であっても、悪魔よりも無限にまさる知恵と力をもっていらっしゃる神が、最終的にご自身の御旨を成し遂げてくださいます。摂理における統治ということです。
 ですから、主イエスは黙々と十字架への道を歩んでゆかれました。
 先の木曜日に、教団の宣教師と日本人部の責任役員の会議がありました。そのなかで、次の宣教師部の理事長となったニールセン宣教師が話をされました。「社会の悪について渡したちはさまざまに考え、論じ、あるべき姿を目指すことは大事です。けれども、同時に大切なことは、悪がはびこる世にあっても私たちは失望してはなりません。神の支配がそこにあるのですから。うまずたゆまず福音を語り、真理のみことばを宣教し続けなければなりません。ほんとうの解決は、キリストの福音にあるのですから。」

結び

 私たちも時に、失望させられることがあります。個人生活のなかで、また、社会の動きのなかで。
先週は、日本を戦争の出来る国へと変質させる安保関連法案が国会で論じられました。日弁連も、ごく数名を除く日本中の憲法学者も、歴代の内閣法制局長官も、そして元最高裁判事・長官たちまでが、「これは違憲法案である」と断言しました。しかも、野党の追及に対する政府の国会答弁からは、集団的自衛権行使については、「立法事実」つまりこの法律がなぜ必要なのかという根拠がないことを、政府の答弁者地震が自白してしまいました。ホルムズ海峡の話、南シナ海の話、朝鮮有事に関する話はどれも立法事実ではないと政府も認めました。実際の立法事実は、国会で表に出さなかった、米国政府財界と日本の兵器産業界の要請と、防衛省の利権、そして、恐らくなにより強いのは安倍首相個人の幼少期からの願望なのでしょう。
 しかし、そうした事実が判明しても、最後は数に物を言わせて結局、強行採決をしてしまいました。
 がっかりさせられました。けれども、失望はしていません。また失望する必要もありません。なぜなら、私たちの神は全知全能の神であり、悪魔や悪人たちのしわざさえも、善に転用することがおできになるお方であるからです。神様にはなにかお考えがあるのだと思います。今まで憲法のことなどまじめに考えたことのなかった日本人が目を覚まして憲法の重要性を考えるようになり、この国のあり方について、立憲主義とか平和主義の尊さについてまじめに考え行動するようにするために、神様はこういう試練に私たちをあわせているのかもしれませんね。

 個人の生活のなかでも、思うようにならぬことがあります。自分自身の罪や欠点。あるいは、横暴な力を持った人の振る舞いによって、不利益をこうむらせられるということもあります。恐ろしい病に襲われることもあります。
 しかし、わたしたちの時は主の御手のなかにあります。主イエスが、父の摂理の下にあって、十字架の福音を実現させるために、黙々と十字架への道を歩んで行かれたように、私たちも主の後ろにしたがってまいりましょう。
大宣教命令にしたがってうまずたゆまず福音を伝えること、そして、文化命令にしたがって置かれた持ち場立場において、神様のみこころを尋ねかつ行うことに励んでまいりましょう。