苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン8月24日  地の果て果て

イザヤ書52章10節
口語訳
主はその聖なるかいなを、
もろもろの国びとの前にあらわされた。
地のすべての果は、われわれの神の救を見る。


新改訳
【主】はすべての国々の目の前に、
聖なる御腕を現した。
地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。


新共同訳
主は聖なる御腕の力を、
国々の民の目にあらわにされた。
地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ。
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 翻訳には大きな異同はない。ただ、口語訳と新改訳は「地の果て」が複数であることをどのように日本語で表現しようかと苦心していることがわかる。「地のすべての果て」「地の果て果て」と。「人々」「山々」はあるだろうが、「果て果て」は日本語としてなじみがないが、原語が透けて見えるような翻訳を目指すという新改訳のポリシーの表れなのだろう。私なら「四方(よも)の果て」と訳すかなあ。
 それはともかく、文脈は廃墟と化したエルサレムを主が回復してくださるとのとき、四方の地の果て、諸国の民はそこに聖なる神のみわざを見ることになるのだという喜ばしい預言である。直前の7節には後にパウロがローマ書で引用する
「 52:7 良い知らせを伝える者の足は
  山々の上にあって、なんと美しいことよ。」
という福音の宣教者の足をほめる一節がある。エルサレムの回復というのは、預言者の幻のなかでは単に政治的・地上的なものではなくなっているようである。そうして、この52章の末尾から53章末尾にいたる、あの世の罪を背負う「苦難のしもべ」の預言が始まる。苦難のしもべは、ひとたび徹底的に貶められるが、その後、ひじょうに高く上げられる、と。新しい神の都の始まり、四方の果てまでの福音宣教、メシヤの苦難と栄光、預言者イザヤはこれらを見た。