苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ゲツセマネ

マタイ26:30−46

1.エジプトのハレルを歌う

 過越しの晩餐の席で、新しい契約のしるしである聖餐式をお定めになって、主イエスと弟子たちは賛美の歌を歌います。過越しの祭りで歌われるのは、旧約聖書詩篇114−118篇だといわれます。

26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

 本日はエジプトのハレルを詳しく見ることはしませんが、一箇所だけ取り上げておきましょう。詩篇118:22−23節です。

118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
118:23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

 この箇所は、先にも主イエスが、譬え話マタイ福音書21章42節で引用されたところでした。<家を建てる者たちとは、石造りの神殿を建てる者たちのことであり、ひとつの石を見つけて使いようがないので捨ててしまった。でも、その石が思いがけず、新を家を建てるための礎になった>というのです。「家を建てる者たち」とは、イエス様の時代のエルサレム神殿での礼拝宗教を支えていた祭司長や律法学者のことです。彼らが、役に立たない、危険だといって捨ててしまう石、それはイエスです。けれども、イエスが新しい時代の神殿つまり、世界にひろがる「聖なる公同の教会」、新約の教会の礎となるという預言です。
 祭司長・律法学者たちは、イエスの教えはエルサレム神殿を中心とした宗教組織には適合しない危険思想であり、イエスは危険人物であると認定しました。そして、イエスをなき者にしようと決意したのです。これから3時間ほどのゲツセマネでの祈りの後、イエス様は祭司長や学者たちの手の者たちに逮捕され、ユダヤ最高議会とローマ総督の裁判にかけられ、午前九時には十字架にはりつけにされようとしています。しかし、預言によれば、その後三日目イエスはよみがえり、新約の時代の神の家つまりキリスト教会の礎となろうとしているわけです。
 このエジプトのハレルの最終部分を歌って、主イエスは、ご自分はまもなく家を建てる者たちにエルサレム城外に捨てられ殺されることになるが、それもまた父なる神のご計画であり、ご自分が新しい契約の時代の「神の家」の礎となるためなのだと、みことばを胸のうちで味わっていらしたのでしょう。主イエスは、十字架の恥辱の死の向こうにある約束に、しっかりと心を留められたのです。


2.弟子たちのつまずきを予告
 
 さて、主は、晩餐と賛美を終えて、11人の弟子たちの顔を見回して、二つのことをおっしゃいます。1つ目は間もなく弟子たちが主イエスを見捨てて散り散りに逃げてしまうという予告です。2つ目は、しかし、散り散りになった後に、ご自分は復活してからガリラヤで弟子たちと再会しようということです。

  26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。
26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

 弟子たちの耳は、イエス様がよみがえるということばは、これまでも少なくとも三回聞かされているのですが、彼らはちっとも理解できません。ただ、自分たちがイエス様を見捨てて逃げてしまうということについては、これは聞き捨てならないと感じました。格別、直情径行な使徒ペテロは、「とんでもありません」とイエス様に食って掛かるように言います。

26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」

 確かにペテロはイエス様を決して裏切るまい、逃げることはすまいと思っていたのです。その決意は立派です。けれども、彼のことばの端には、傲慢さが少々現れています。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても」という部分です。「他の連中は臆病者で逃げ出すだろうが、この俺はイエス様、あなたを見捨てて逃げることは決してありません。俺はヨハネみたいに頭はよくないし、ヤコブみたいに思慮深くもないけれど、勇気と、あなたをお慕いする気持ちにかけては、やつらに劣りはしません。」と言いたかったのです。
けれども、主イエスは念を押すようにお答えになります。

26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

 ここまではっきりと具体的に言われてしまって、ペテロはどうしたでしょう。自分はそんなに主から信用されていなかったのか、と腹も立ち情けなくもなったでしょう。抗議するように、あるいは、自分自身を励ますためか、激しい口調で自分の死をも覚悟していると決意を表明します。

26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

 これまで主イエスの予告なさったことばが、一度たりとも外れたことはなかったのです。それでも、ペテロと弟子たちは、主の予告なさったことを否定しないではいられませんでした。主のことばよりも、自分たちの勇気を信じたかったのです。


3.ゲツセマネの祈り

 そうして、主イエスは弟子たちといっしょにエルサレムの東にあるオリーブ山に登ってゆかれました。主イエスエルサレムに到着なさった日から毎晩、この山に来て祈ることを常としていました。オリーブ山の北側にゲツセマネの園があり、オリーブの林になっています。過越しの祭りのときは満月と定められていましたから、深夜ではありましたが林の中には月光が煌々と満ちています。
イスラエルではオリーブをしぼって油を取ります。ゲツセマネとは「オリーブ油しぼり」という当時使われていたアラム語です。ここで、主イエスは血の汗を滴らせる祈りをなさったのでした。
 主が、この祈りの場に伴ったのはペテロ、ヤコブヨハネの3人でした。主は、この3人からも離れて林の奥に入って行かれ、そこで祈り始められました。
 

26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」


(1)イエス様の悲しみと孤独
 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と主はおっしゃいました。これまで福音書を読んできて、イエス様がこれほどまでご自分のことで感情を露わになさったことはありませんでした。嵐の小舟でも、泰然として寝ておられた主イエスでした。ところが、ここにきてイエス様は「悲しみの余り死ぬほどです」とまでおっしゃるのです。
エス様は、単にご自分が十字架刑にかけられる苦痛を怖がって悲しまれたのではありません。多くのクリスチャンたちが、古代ローマ帝国の迫害によって殉教しましたが、彼らはしばしば賛美の歌を主にささげつつ、処刑されたという記録が残っています。日本でも長崎十六聖人の殉教の証を読むと、なんと勇敢な信仰者たちだろうかと感動します。殉教者たちは、その死によって、御国に凱旋することを思って、賛美と感謝をささげました。 
しかし、主イエスの十字架刑における死は、殉教者たちの死とはまったく異質のものです。主イエスの十字架の出来事というのは、尊い神の御子が最愛の父なる神と永遠の愛のまじわりから絶たれ、堕落した全被造物にかけられた呪いを一身に背負うものでした。主イエスの十字架の死は、永遠の呪いが詰め込まれた最悪の死だったのです。歴史の中で、主イエス以外、誰も経験したことはないし、これからもそういう死を経験をする人はひとりもありません。
 
 また、ゲツセマネでイエス様は孤独でした。特別に選び同伴させた三人の弟子たちは、眠気がさしてしまって、イエス様と一緒に祈ることができませんでした。一回目一時間ほど祈って戻られると弟子たちは寝ていました。

26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。 26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

 二度目、また祈りを終えて戻ってこられると、弟子たちは寝ていました。

26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。

 三度目に、祈って戻られると、呆れたことに、彼らはまたも寝ていたのです。

26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。

 弟子たちのこの眠けは何か不思議な感じがします。ルカ伝は「悲しみの果てに」眠ってしまったとか言っているのですが。主イエスは孤独でした。本当に孤独の淵で、一人、この悲しみと苦しみを担わねばならなかったのです。


(2)主イエス祈り・・・率直さ、正直さ
 次に、主イエス祈りの特徴です。

26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 ゲツセマネの主の祈りから学ぶことの1つは、そのたましいのそこから注ぎだされた率直さということです。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と主イエスは祈られました。少しびっくりします。主イエスは、ピリポ・カイザリヤで最初にご自分の受難について予告なさってから、何度もご自分の受難について話して来られたのです。それなのに、何をいまさら・・・と感じてしまいます。なんかかっこ悪いなあと思ってしまいます。しかし、これが主イエスです。天の父の前では、なんの格好をつけることもなく、たましいの底にある気持ちをありのままに、お話なさるのが神の御子イエス様なのです。
神様の前における祈りにおいて、格好をつけるのは意味のないことです。プライドなど意味のないことです。祈りにおいて肝心なことの第一は、正直さ、真実さ、率直さです。


(3)主イエス祈り・・・「みこころ」に迫っていく
 ありのままの正直な気持ちを神様の前に注ぎだしていくなかで、「しかし、この願い以上に大切なことは、父よ、あなたのみこころです。みこころのままになさってください。」というのが、もうひとつの主イエスのお祈りの大事な点です。自分の願いを率直に神の前に注ぎだすことは大切なことです。それなしに、簡単に「みこころのままに」というのは、霊的怠惰です。ですが、私たちは自分の欲のために生きているのではなく、神のご栄光が現わされるためにこそ生かされているものです。ですから、率直に自分の思いを申し上げた上で、「しかし、あなたのみこころをなさってください」と祈ります。
 このように1時間ほども格闘のような祈りをされた後、主イエスはあの三人の弟子たちのところに戻ってこられます。ところが弟子たちはなんと眠っていました。もう一度、弟子たちのもとを離れて主は祈られます。最初の祈りと少し変化していることに注目してください。

26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

 どのように変化しているでしょうか。主イエスの気持ちが、父のみこころに近づいてきているということに気づかれるでしょう。

26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。

 この三回目の祈りの内容は記録されていないのですが、私たちは推測することができるでしょう。
「父よ。この杯を飲むことがあなたのみこころであることがわかりました。わたしはあたのみこころにしたがいます。」
 このような内容の祈りであったことでしょう。であればこそ、敵が迫ったとき、主イエスは決然とおっしゃいました。

26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

 主イエス祈りに学ぶ、もうひとつの点は、その祈りは、父の御心に迫っていき、ついに、御子の心と父の心とがピタッと一致する祈りであったということです。
 私たちは、正直に、ありのままの思いを神様に向かって告げてよいのです。そうであるべきです。ですが、同時に、私の願いではなく、あなたのみこころに従います。という姿勢をしっかりともって、御心に迫る祈りを捧げてゆきたいと思います。


結び
 主イエスはただ独りゲツセマネで祈らねばならず、ただ独りで十字架にかからねばなりませんでした。神であられながら人となられたお方として、私たちの罪をお一人でになうために。弟子たちの誰一人として、主イエスの贖い主としての立場に成り代われる人はおおりませんでした。
 しかし、主イエス祈りの姿は、私たちが主の弟子として主に従ってゆくときの模範となるものです。自分のありのままの姿で格好をつけず、神の前に祈ること。そうして、神のみこころに迫り、そのみこころと一つになって行く、そういう祈りです。