苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

アメリカでなく、日本で聖書を読む意味

 イラク戦争の終わったころから、日本にいてこそ、聖書はよく見えてくるということもあるのではないかという気がしてきた。というのは、古代イスラエルが置かれた地政学的状況と、現代の日本が置かれているそれとが類似しているからである。
 古代イスラエルは、東にメソポタミアの大文明圏があり、西南にエジプトという巨大王国があり、両文明圏からの圧力にいかに対処するかということが、常に外交の課題だった。創世記13章にはメソポタミアの王に、カナンの領主たちが定期的に朝貢していたことが記されている。ショバ代というか思いやり予算みたいなものである。モーセの時代には、むしろ、カナンの地にはエジプトの政治的影響が強くなっていた。このころから後は、長きにわたってエジプトの傘の下に入ることで、東からの圧力に対抗するというのが、イスラエル外交政策の基本となる。ソロモン王はエジプトの王女を妻として迎えている。
 時代は飛ぶが主イエスの時代には、イスラエルローマ帝国の属州とされていた。主イエスの誕生したころは、ヘロデ大王が皇帝から全土をゆだねられた傀儡政権を立て、同時にサンヒドリンがあった。ヘロデ大王死後は、分割統治とされて、ガリラヤ地方はヘロデ・アンテパスが国主とされたが、ユダヤ・サマリヤ地方はローマ総督ピラトが統治し、同時に、ユダヤ最高議会サンヒドリンが機能していた。主イエスがかけられた裁判も、まず、カヤパの官邸(最高議会)、ローマ総督ピラト、ヘロデ・アンテパス、もう一度ローマ総督とたらいまわしにされている。政府が二重あるいは三重になっていたわけである。
 こうした状況は、先の敗戦後、GHQが進駐していた日本の状況にあからさまに類似する。日本には、天皇、議会・内閣・裁判所があったけれども、その上にGHQが存在していた。本当に大事なことは、GHQにお伺いを立てなければ決めることはできなかった。その後、GHQは去って日本の主権が回復されたということになっていて、確かに相当部分回復されたと言えるとは思うけれど、実際には大きな部分で、日本は米国の支配下にある。
 以前、当ブログでも紹介した『日本はなぜ基地と原発を止められないのか』『ほんとうは憲法より大切日米地位協定入門』という本を読めば、その実態がわかる。わが国は、今も、米国軍人・軍属について治外法権を認めており、米軍は日本列島のどこでも基地として無期限に使用する権利をもっており、今も、沖縄だけでなく、関東甲信越地方の上空は米軍の管轄下にある。また、小泉・竹中改革と呼ばれた諸々の新自由主義経済に基づく改革は、クリントン政権下からの「年次改革要望書」を忠実に実行したものだったし、近年、日本政府が行ってきた、原発再稼動・TPP・武器輸出三原則撤廃そして集団的自衛権行使容認といった政策は、第一次アーミテージ・ナイ・リポートの要求事項を「わが国が主体的に、国民の生命財産をまもるため」という能書きを言いながら、実行しているにすぎない。
 日本政府は、戦後70年間、宗主国である米国の傀儡政権であり、政府官僚はつねに米国のご機嫌をとりつつ、日本統治を行なって、この体制にあって既得権益にあずかってきた。米国から独立しようとする動きをする政治家、政権が立つと、官僚たちは、そういう政治家・政権を潰してきた。戦後70年間、ずっと日本政府は米国の傀儡であったのだが、民主主義の伝道者を自負する米国はローマ帝国政府が行ったようなあからさまなやり方はしなかったので、表面的には日本は独立国の体裁を保ってきたわけである。特に、安全保障にかんしては9条を盾として、集団的自衛権行使を無理ですよと拒んでくることができた。
 だが、このところ米国の戦争を手伝え・肩代わりせよという要求に対して、「戦争してこそ一流国」という変な妄想に囚われ、戦車や戦闘機に乗ってニッコリ記念撮影するような子どもじみた指導者がそれにホイホイ乗ろうとしているので、わが国民の雲行きがたいへん危険なことになってきている。彼は昨年、米国のCSISという日本に原発再稼動・TPP・戦争協力を求めるシンクタンクで演説をして"Japan is back!"と結びの言葉で喝采を浴びて、うれしがっていた。ターミネーター復活のつもりなんだろう。

 それはそうとして、最初に戻るが、こういう属国的状況に置かれた国にあることをよく見ながら聖書を読むと、聖書の背景で今まで見えなかったことが見えてくるだろう。これは覇権国に住んでいては決して見えてこない面であろう。都ローマで聖書を読んでもピンと来ないが、属州イスラエルで聖書を読んでこそピンと来るように。
 主イエスは都ローマの宮廷には生まれず、属州の一庶民として地上に人となって来られた。私はアメリカでなく日本に生まれた者として聖書を読み、主が、属州イスラエルにおいて何をどのように宣べ伝え、どのように生きられたのかということに注意しながら、聖書を読み直して行きたいと思う。