苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン8月20日   隠れたる神

(イザヤ45:15)
口語訳
イスラエルの神、救主よ、
まことに、あなたは
ご自分を隠しておられる神である。

新改訳
イスラエルの神、救い主よ。
まことに、あなたはご自身を隠す神。


新共同訳
まことにあなたは御自分を隠される神、
イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。
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 翻訳の特徴は語順のちがい。語順的には新共同訳がヘブル本文に近い。だが、「あなたは救いを与えられる」は、普通に訳せば「救い主」。
 45章は14節まで主のことばであり、創造を通じての啓示、イスラエルの歴史を摂理した啓示を語って、主のみが真の神であるということが述べられて来た。それにもかかわらず、主は「ご自身を隠す神」であられるという不思議。主は啓示をお与えになるのだが、主は隠れている。デウス・アブスコンディトウス隠れたる神。
 そういえば、主イエスもご自分のたとえばなしに関して、イザヤ書を引用して、たとえで話すのは、わかりやすくするためではなく、見るには見るが見えず、聞くには聞くが聞こえなくするためだ、とおっしゃったことがあった。
 隠れたる神ということは、考えてみれば、はるか私たちの手も目も耳も届かない遠くにおられるのではなく近くにおられることを意味している。神が私たちにとって遠くに(超越的に)おられるならば、なにも隠れる必要はないわけで、近くにおられるからこそ、今もここにいらっしゃるからこそ、隠れておられるのだろう。
 神様はかくれんぼがお好きなのか、それとも恥ずかしがりやさんなのか。