苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン8月16日  愛が受け入れられない悲しみ

創世記50:17b
口語訳
「今どうかあなたの父の神に仕えるしもべらのとがをゆるしてください」。


新改訳
「今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」


新共同訳
「お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」

 かつて弟ヨセフを奴隷として売り飛ばした兄たちは、父が亡くなって改めてヨセフが復讐をするのではないかと怯えていた。ヨセフが再会のときに述べた赦しのことばが信じられなくなっていた。そこで、兄たちは恐れおののきながら、ヨセフに、おそらく作り話であろうが亡き父が遺言としてヨセフに兄たちを赦すように言っていたと告げ、そして、上記のことばでヨセフにすがりつくように赦しを乞うている。兄たちのことばを聞いて、ヨセフは泣いた。自分はとうの昔に赦していたが、兄たちには自分の気持ちがわかっていないと知ったからであろう。
 兄たちのことば「あなたの父の神に仕えるしもべら」という表現もまた、ヨセフの赦しを得るために技巧を凝らしていることがわかる。自分たちの内にはヨセフから赦してもらう根拠はないが、こんな自分たちではあってもヨセフの父の神に仕えるしもべたちなのだ、神を畏れるおまえはそのしもべを打つことは出来まいという訴えである。 兄たちの切迫した気持ちからいうと、新共同訳が訳出しなかった、「今」ということばは訳出したほうがよかったのではないかと思う。 
 兄たちは、「これは父の遺言だ、私たちもお前の父の神のしもべだ」といってヨセフに赦しを乞う。必死のことばではあるのだが、なんともその技巧がいやらしく、情けなく、ヨセフは泣いてしまう。愛が受け入れられない悲しみというのだろうか。