苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

同盟教団信仰告白05 創造と摂理

創世記1:1-2:3

3.神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。(日本同盟基督教団信仰告白

序 創造と摂理
 神は永遠の御旨、すなわちご計画を、創造と摂理というみわざによって実行に移されます。創造というのは、神が無から万物をお造りになったことであり、摂理というのは、創造された世界を神が保ち、導き治めることを意味しています。18世紀啓蒙主義(合理主義)の流行した時代以降、欧米で理神論(デイズム)という思想が流行するようになりました。彼らは、神が世界をこのように秩序あるものとして造ったことは認めますが、神が世界を今も配慮し時には特殊なかたちで介入するお方であることを認めません。理神論のいう神は世界を造ったあとは、これを放置していて、世界は、いわば自動巻きの時計のように、それ自体の合理的な法則だけで動いているのだというのです。
 しかし、聖書においてご自分を啓示している神は、世界を創造しただけでなく、世界を配慮し保ち統治なさり、時には特別な介入さえもなさる神です。聖書自体、そうした特別の介入である啓示というわざの産物です。


1.三位一体の創造主

 父、子、聖霊の三位一体をそれぞれのわざに目立つ点から、父なる神を造り主、御子イエスを救い主、聖霊を慰め主と呼ぶことがあります。これを経綸的(けいりんてき)三位一体論などと申します。それはそれでわかりやすく意味のあることですが、子細に聖書を読みますと、創造においても、救いにおいても、慰め励ますことにおいても、父と子と聖霊はともにそのみわざを行っていらっしゃることがわかります。父は主宰、子は実行、聖霊は仕上げという分担と見られるようです。創造についていえば、

1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

 父は主宰者として万物を創造なさいました。「1:1 初めに、神が天と地を創造した。
」とあるとおりです。
 また、神の霊すなわち聖霊が、神の発せられる「光あれ」ということばを今か今かと待っているようすが創世記1章2節にしるされています。

1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

 御子はヨハネ福音書では別名「ことば」とも呼ばれるお方であって、御父のみこころにしたがって、万物を創造なさいました。「はじめに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)
 神のことばが発せられるや、聖霊詩篇104:30に「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。  また、あなたは地の面を新しくされます。」とあるように、万物を造り仕上げられたのです。
 以上のように、万物の創造は父と子と聖霊なる三位一体の神の協働のみわざなのです。御父が万物を創造することを意志され、御子(ことば)は実行に移し、聖霊はそれを最終的に仕上げられたのでした。
 

2.創世記1章の意図・・・造り主こそ礼拝されるべきお方

(1)造り主こそ
 創世記には1章から2章3節までの第一の創造にかんする啓示と、2章4節から末尾までの創造に関する第二の啓示が記されています。1章の啓示が語ろうとするメッセージはなんでしょうか。創世記の記者モーセが、最初の読者として想定したのはエジプト脱出をしてきて間もないイスラエルの民です。彼らイスラエルの民は400年にもわたって、エジプトの地で過ごしてきました。エジプトにはさまざまな偶像がありました。太陽をはじめとする天体の数々、鳥や牛や狼など獣を神々としてあがめる人々、蛇やワニを崇める人々、巨大なナイル川を神としてあがめる人々、スカラベなど昆虫を神とあがめる人々などがいたのです。
 モーセが民に教えたいことは、これらエジプトで神々としてあがめられていたものは、ひとつ残らず神の作品、神の被造物であるということです。創世記では、第一日目に光、第二日目に大空と海、第三日目に陸地と植物、第四日目に天体、第五日目に海と空の生き物、そして第六日目に陸上の動物と最後に人間という順番で創造の業が記されています。これらはみなエジプトでは神々としてあがめられていたものです。
自然界のものはすばらしい。しかし、それらは礼拝する神ではない。これらの作品の数々を造ってくださった創造主こそ礼拝されるべき唯一のお方です。例えば太陽が地球を暖め、作物を育てるからといって、太陽を神として拝む人がいます。古代エジプトのラーとか天照大神というのは太陽の神とされています。けれども、太陽は神が造られたストーブ兼明かりであって、神様がこれを貸していてくださるのです。寒い冬にぶるぶる震えていたら、隣のおじさんがストーブを貸してくれたとき、ストーブに「ありがとう」と頭を下げるのではなく、隣のおじさんに「ありがとう」と頭を下げるべきでしょう。同じように、私たちは太陽にではなく、太陽を造り、貸してくださっている神様にこそありがとうございますとお礼をすべきです。「あなたには、わたしの他に他の神々があってはならない。」と十戒の第一番目に命じられているとおりです。
「造り主こそ、ほめたたえられるべきお方です。」


(2)多神教、汎神論とのちがい
 世界には無数の宗教があり、無数の世界観があるというふうに思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、実際には、神と自然の関係からいうと、それほど多くの世界観があるわけではありません。
第一は、世界が永遠の昔からあって、そこにさまざまな神々が誕生してきたという多神教の世界観です。私は子どもの頃、ギリシャ神話、古事記北欧神話を読みましたが、みなそういうパターンです。古代エジプトでも、メソポタミアでも、インドでも、ギリシャでも、多神教が支配的でした。空の神、山の神、森の神、太陽の神、また、死者であれ生きている人間であれ神々として祀ります。多神教では八百万の神々をあがめるのです。日本の古事記日本書紀の世界観もこの多神教です。
多神教の神々というのは、有限でしばしば不道徳な存在であったりします。天照大神は弟が高天原を荒らしまわってひどいことになったので、ショックを受けて天岩戸に隠れてしまったなどとかかれています。彼女を岩戸から出すために、アメノウズメノミコトという神は卑猥な踊りをして、神々が乱痴気騒ぎをしたともあります。
第二は、神イコール自然であるという考え方があります。これは少し哲学的なものです。有限な存在は人間的で身近な感じで面白くはあっても、とうてい神として崇めるに値しないと考えた思想家たちは、この自然の根本原理みたいなものこそ「神」とすべきだとしました。これを汎神論といいます。汎神論によれば、神々も人間も動物も虫もミミズもオケラも植物も石ころもすべては唯一の「神」の現れであるとします。あらゆるものには仏性がやどっているという大乗仏教の考え方も、汎神論です。哲学の世界ではスピノザという17世紀オランダの哲学者も汎神論を唱えました。
 個物は「神」という大海の表面に現れた波のようなものです。したがって、神の存在と自然の存在は同時であるということになります。世界がなければ神もありません。また、「神」と世界は一つですから、世界が汚れれば神も汚れます。その「神」というのは非人格的な原理のようなもの、法則のようなものですから、人格と人格の対話としての祈りはありえません。ただ人は「神」について観想するのみです。

 では、聖書にご自分を啓示された神はどのようなお方でしょうか?多神教における有限な神々とも、汎神論における非人格的な宇宙の原理とも違います。
神は永遠から永遠にいますお方であって、かつて世界は存在しませんでした。しかし、ある時、神が世界を創造しようと決断なさり、おことばをもって世界を無から創造なさったのです。「光あれ」と神が意志してことばを発せられると、光ができたのです。「大空よ水の間にあれ」とことばが発せられて、大空ができました。「地はひとところに集まれ」とことばが発せられて陸地ができたのです。世界とそこに住むあらゆる生き物は、過去の時点で造られた有限な存在です。ただ神のみが永遠の無限の存在なのです。
 また、神は「光あれ」とおことばを発し、光と闇とを区別して命名し、創造における各段階において「よし」という満足感を現わされたお方です。真の神様は、知性と感情と意志と創造力を持たれる人格的な存在なのです。これに対して世界はあるときまで存在せず、あるときに出現し、神が意志していてくださるかぎりにおいて存在する有限なものです。
 ですから、無限の人格神である造り主のみが礼拝されるべきお方です。


3.多様性と統一性・・・共に生きる世界

 神様は無からことばによって万物を造られました。その神の作品である世界の根本的特徴を見ておきたいと思います。
 第一日目は光、 第二日目は大気と海、  第三日目は陸地と植物
 第四日目は天体、第五日目は鳥と海の生物、第六日目は陸上動物と人間
 そして、第七日目は安息。
こうしてみると、世界は多様な要素が、秩序をもって統一的に作られたシステムなのだということが表現されていることがわかります。実際、私たちが生活している世界は、大宇宙の天体の動きと、地上の一輪の花が咲くということが見事に関連しているのです。
 一つの植物が花を咲かせ実をならせることをごくおおざっぱに考えてみよう。地球には自転と公転を正確に繰り返すことによって、適切な気温と四季の 移り変わりを導くシステムがあり、降り注ぐ太陽エネルギーを有害光線は極力遮蔽しつつ、適度に地上に受け止めて気温を保つ水蒸気の温室効果というシステム があります。太陽光は海の水を水蒸気に替えて雲として、これを陸地に配分し大気を循環させるという気候のシステムがあり、土にまかれた種が芽を出して育って花を咲かせたときミツバチやチョウが受粉を手伝うというシステムがある。一つの植物が育つには、土の中の微生物の働き、植物の光合成の仕組み、その他、分子レベルまで追求すれば数え切れないほど多くの仕組みがある。仔細に見てゆけば、一輪の花が咲いて実をならせるということのために、ミクロの次元からマクロの次元まで全宇宙が連動しているのです。このように、私たちの住む世界は、見事に多様な要素が見事に統一性が保たれて、一つのシステムとして機能しています。
 多様性と統一性は、おいしいおにぎりの秘訣でもあります。おにぎりはぎゅーっときつく握りすぎると、団子みたいになっておいしいものではありません。さりとて、握りがゆるいと食べているうちにぼろぼろと壊れてしまって、これもいただけません。おいしいおにぎりは、一粒一粒のお米が生きていて、かつ、しっかりとまとまっているものです。つまり、多様性と統一性の両立がおにぎりの秘訣です。社会に適用すれば、統一性を強調しすぎる社会は全体主義に陥り、多様性を強調しすぎる社会は個人主義に陥ります。多様性と統一性の調和がたいせつです。被造物のありかたには、三位一体の神の影が落ちているということができるでしょう。当然、教会のあり方もそうです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:25−27)

4.摂理(被造世界の歴史性)

 神様は、はじめに「光あれ」とおっしゃり、次に大気と海、次に、陸地と植物・・・と段階をふんで万物を創造したと創世記1章は告げています。神の全能をもってすれば、こうした段階を踏まなくても、「世界よありなさい」と言って、一日ですべてを造ることができました。けれども、神様はあえて段階的に、つまり、時間的な経過をへてお造りになったのでした。それは、この私たちの生かされている世界が時間的・歴史的なものであって、時の中で神様に導かれて行く者なのだということを顕わしています。それはつまり、神は摂理の働きをもって歴史を導かれるお方なのだということを意味しています。
神の被造物に対する配慮を、摂理というのです。私は「配剤」という訳語はピタリであるなあと思うのです。配剤とは「医者がその患者の状態に応じて、必要な薬を調合す る」という意味から、一般に「ほどよく取り合せる」という意味への広がりを持っています。魂の医者である神様が、神を愛する患者のために、ある場合は病気を試練という薬、ある場合は事業の成功という薬、ある場合は失恋という薬という具合に、薬を取り合せて病んでいる魂を快方に導くということです。また、ある人は案配という訳語を用います が、これもなかなかの名訳であります。「ほどよく並べること」と国語辞典が言いますように、神が私たちの人生に起こり来る様々な事件をほどよく並べることによって、私たちを御自身の御心にかなう者に形成して下さるということです。ともかく、神の摂理には配慮、配剤、案配といったニュアンスがあることを理解してください。
 聖書のなかで見事に摂理について教えている箇所のひとつは、ヨセフ物語でしょう。若くして兄たちに憎まれて隊商に売り飛ばされたヨセフは、奴隷に実を落としながら、主の不思議な摂理のなかでエジプトの宰相に上り詰めます。そうしたところに、オリエント世界を覆う大飢饉が襲います。すると、カナンの地から兄たちが食料の買い付けにエジプトにやってきました。ヨセフが自分のことを明かすと兄たちはおそれおののきます。復讐されるのではないか、と。しかし、ヨセフは恐れる兄たちに対して言うのです。

50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。
50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。

 見事な摂理信仰です。ヨセフは神の摂理に対する信仰によって、兄たちへの恨みから解放されたのでした。兄たちが悪をなしたとしても、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画によって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる。」(ローマ8:28)という信仰です。神はすべてのことを働かせて、神の民が神を愛し、隣人を愛する者へと造り変えていってくださる、それがローマ8章28節の意味です。
 統治としての摂理の頂点は十字架の出来事です。また、サタンは神の御子を当時のユダヤの宗教家を用いて殺害してしまいます。ところが、これこそ神の人類救済の要としての十字架であったのです。実に神は、サタンの悪巧みをも逆手にとって、私たちの救いを成就したまうのです。

結び
 創造と摂理についてハイデルベルク信仰問答から

問27 あなたは、神様の摂理とは、何であると思いますか。
答 神様の、全能で、あらゆるところで今働いている力であると思います。
その力によって、神様は、天と地を、そのすべての被造物といっしょに、
神様ご自身のみ手によってなさるかのように、保たれ、また、支配されるのです。
なぜなら、木の葉も草も、雨も日照りも、
実り豊かな年も、実りのない年も、食べることも飲むことも、
健康も病気も、富も貧しさも、
すべてのものが、偶然にではなく、
神様の父親としてのみ手によって、わたしたちに与えられるのです。

問28 神様の創造と摂理とを知ると、わたしたちにとって何の役に立つのですか。
答 わたしたちが、あらゆる不幸の中でも、忍耐深くなり、
幸福の中では、感謝をして、
未来のことに対しては、わたしたちの信頼できる、お父様である神様に、
全面的に信頼するようになることなのです。
なぜなら、なにものも、私たちを神様の愛から切り離すことはできないからです3。それは、すべての被造物が、完全に神様のみ手の内にあり、神様のご意志によらないでは、揺れることも、動くこともできないからなのです。