苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ナルドの壷

マタイ26:1−16

序  主イエスはいよいよ十字架につけられる覚悟を表明なさいます。これまですでに少なくとも三度ご受難について予告して来られましたが、「二日たつと」とおっしゃったことで、一気に緊張感が高まります。

26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

 その十字架の出来事は、ご自分を「過ぎ越しの祭り」の犠牲のまことの小羊としてささげることなのだということを暗示なさいます。過ぎ越しの祭りはかつてエジプトの奴隷とされていたイスラエルの先祖たちを、神が救い出してくださったときの出来事を記念する祭りです。神はモーセを通じてエジプトの王パロに彼らの解放を求めましたが、パロが心をかたくなにしたので、神はエジプト全土に10の災害をもたらしました。その第十番目が、初子を打つという災いでした。ただし、イスラエルの民が傷のない雄の小羊の血を門と鴨居にぬっておくならば、死をもたらす神の使いはその門の前を「過ぎ越し」て行くという約束が与えられました。小羊が罪の償いの犠牲とされたのです。この出来事は、将来、神の御子が人として来られて、十字架で私たち人間の罪を背負ってくださるという出来事を指差すものだったのです。ですから、主は過ぎ越しの祭りのときを、ご自分の十字架にかかるときとしてお選びになりました。


本文の構造

 さて、3節から16節までの本文の構造を見てください。3節から5節の出来事が、14節から16節につながっています。3−5節には、イエス様を敵視する祭司長たちがイエス様を暗殺する相談をしているのです。しかし、民衆の騒ぎを恐れて祭司長たちは躊躇しています。

26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、 26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。 26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。

ところが、14節を見ますと、その悪い相談をしている只中に、イスカリオテ・ユダが飛び込んできて、彼らから銀貨三十枚という当時の奴隷の値と引き換えに主イエスを彼らに渡すことを約束したのです。奴隷の値、銀貨三十枚ということが、祭司長たちのイエスに対する憎しみさげすみを表し、またイスカリオテ・ユダのイエス様に対する憎しみを表しています。

  26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、 26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

ところが、5節と14節の間に、6節から13節のベタニヤでの香油を注いだという出来事が挟み込まれているのです。なぜ、この祭司長たちの謀議の真ん中に、イエス様がベタニヤのシモンの家でナルドの香油を注がれたという事件が挟み込むように配置されているのでしょうか?それは、このナルドの香油の事件こそが、イスカリオテ・ユダが主イエスを裏切ったその行為の引き金となったことを示すためです。十二使徒イスカリオテ・ユダがなぜイエス様を裏切ったのかという謎については、昔から多くの人が論じてきました。イエス様には多くの人がつき従っていましたが、そのなかの特選の十二人のひとりがイエス様につまずきイエス様を裏切ったというのは、スキャンダラスなことです。このベタニヤのシモンの家で何があったのでしょう?



背景
 場所はエルサレムの西南五キロくらいのところにある町ベタニヤです。ベタニヤにはイエス様と親しかったツァラトという重い皮膚病に犯された人シモンの家と呼ばれていました。当時、ツァラトはたいへん恐れられた病であり、単なる病ではなく宗教的な「けがれ」として捉えられ隔離処置が取られていましたので、この家には父シモンは住んではいませんでした。また、この家にはお母さんの影も見えません。早く亡くなってしたのではないかと推測されます。
こんなわけで、どうやら三人の兄弟姉妹で暮らしだったようです。姉がマルタとマリヤ、弟がラザロです。世間の人々は「ツァラト」を出した家ということで、恐らく彼らに近寄ろうとしなかったのではないかと思われますが、主イエスユダヤ地方に来るたびに彼らの家を訪ねたことがほかの福音書には記されています。
 マタイ福音書では省略されていますが、ヨハネ福音書11章の記事を見ますと、本日の記事の少し前に、弟のラザロが重病にかかって死んでしまい、葬式もすませて墓に安置して四日目、イエス様の一行がマルタとマリヤを訪問したことが記されています。イエス様はラザロの墓の前に来られると、「ラザロよ。出てきなさい。」と大声で叫ばれました。すると、布を巻かれたラザロが墓から出てきたのでした。こうした出来事があって数日後に、今日お読みした食卓での出来事があったわけです。


弟子たちの思い

 このベタニヤの家の食卓には、数日前に死んで四日もたっていたのにイエス様によって生き返らせていただいたラザロも同席にしていたのではないかと思われます。たとえ、そこにいなくても、輝かしい奇跡を思い出さずにいられない家でした。エルサレムに入ってた異論を挑んでくるパリサイ人、サドカイ人たちをイエス様がやすやすと論破するのを見てきた弟子たちの気分は高揚していました。
そういう弟子たちの耳には、「人の子は十字架につけられるため敵に引き渡されます」という主イエスのことばは入ったのかは、はなはだ心もとないところです。死者をよみがえらせる神としての権威をお持ちのイエスさまが、むざむざと敵に捕まえられ殺されるはずがないし、そんなことがあって欲しくないという気持ちでした。イエスさまはこんな大事なときに、弱気になって悲観的なことをおっしゃるのを少々困ったものだと感じていたことでしょう。弟子たちが威勢のよいことを口走っている賑やかな食卓で、主イエスはむしろ深い悲しみに沈んだご様子で黙っていらっしゃいます。


注がれた香油

 と、そこにマリヤが入ってきました。聖書の世界ではマリヤという名はポピュラーな名前で、主イエスの母をはじめとして何人か登場します。ここのマリヤは、「ベタニヤのマリヤ」と呼ばれる姉妹です。やり手で外交的な姉マルタに比べると、内向的で静かで料理などもさほど上手でもなく、お姉さんのように気が利く娘ではありませんでした。
不器用なマリヤではありましたが、主イエスが彼女について挙げられた美点は、主イエスの語られることばに対する熱心でした。他の何を置いてもとにかくイエス様のおことばに一所懸命に聴く耳をもっていたということです。だからこそ、でしょう、マリヤには主イエスのお心にはただならぬ決意があり、そして、深い悲しみに満ちていることがわかったのでした。マリヤは十二人の弟子たちのように、四六時中イエス様のそばにいたわけではありません。たまに訪ねて来られるとお話を聴いただけです。けれども、彼女は聴く耳をもっていたので、主のおこころがわかったのでした。
 マリヤには詳しいことはわかったとは思えませんが、何とかして主イエスをお慰めするために、自分に出来ることはないかと思いめぐらしました。そうして、思い立ったのが、「そうだわ。あのナルドの香油の壷を」ということだったのです。ナルドの香油というのはたいへん貴重なものでした。ヨハネ福音書の並行記事によれば、ユダは「この香油なら三百デナリに売れる」と値段をつけています。ざっと計算して240万円ほどの金額です。なぜ彼女の家にこんなに貴重なものがあったのか、詳細はわかりませんが、花嫁道具だったのではないかとある人は推測しています。三人の家には父母の姿が見えないので、恐らく早く他界したのでしょう。お父さんは生きていても帰ってこられない病でした。その父母の形見ともいうべきもの、「お前がお嫁に行くときには、このナルドの香油を持っていきなさい」と言われていたのかもしれません。
 マリヤはイエス様をお慰めするためにおささげするのですから、自分の出来るなかで最善の物をおささげしたいと思いました。主を愛するものとして、最善のものをおささげするとしたら、この香油をおいてほかにありませんでした。


弟子たちの反応
 ナルドの香油は揮発性の高いものであり、また、非常に高価なものでしたから、飛んでしまわないために、石膏の壷に収められ口の部分も石膏で塗り固めてありました。そこで、一世一代これを用いようというときには、壷の首をポキリと折るなり、壷を割るなりしてもちいるというわけです。ちょうど瀬戸物の貯金箱で取り出し口がないやつみたいです。マリヤはこの壷を両手にささげもってまいりまして、イエス様のそばに来ると、壷の首を折りました。そうして、黙って、惜しげもなく主イエスの頭にその香油を注ぎかけたのでした。部屋の中はかぐわしい香りでいっぱいになります。イエス様は静かにされるがままにしていらっしゃり、食卓の弟子たちはうっとりとしたことでしょう。
 ところが、そのとき、弟子の一人が冷たい非難の調子で言いました。ヨハネ福音書の並行記事を見ると、イスカリオテ・ユダがまず口を開いたのです。

ヨハネ12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 これを聞いた弟子たちは、いままでうっとりしていたのですが、なんだかユダが賢そうなことを言って、イエス様の前で点数を稼いだように思われたので、ユダの尻馬にのってユダに遅れをとらじとして口々に言いました。それが、マタイ伝に記されています。

マタイ26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。 26:9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」

 彼らはイエス様はぜいたくを好まれず、いつも貧しい人々に心をかけていらっしゃいました。五千人もの群衆が食べ物がないというと、「彼らに何か食べ物をやれ」と無理難題を持ちかけるようなお方です。ですから、こんな高価な香油を注いでもらうよりも、それを売って貧しい人々に施そうと提案するほうが、イエス様は喜ぶにちがいないというふうに思ったわけです。


エス様のことば
 ところが、主イエスは意外なことをおっしゃいました。

26:10「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。 26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。 26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 イエス様は、彼女がしたことは立派なことなのだとおっしゃいます。その理由は二つあります。第一は、彼女が主のみこころを悟って、それに相応しい行動をしたことです。彼女は、死んで埋葬されようとしているイエス様のために香油をぬったからです。弟子たちはイエス様が何度もこれからご自分が敵に引き渡され、十字架にかけられて死ぬことになると予告しているのに、少しもまともに主のことばを受け取ろうとはしてきませんでした。それどころか、イエスさまがご自分の受難について話をするたびに、彼らは耳をふさいで誰が一番偉くて主イエスが王座に着いたら誰が左大臣になるのか右大臣になるのかといった野心まるだしにして、的外れなことをずっと言ってきたのです。もう十字架が目前に迫っているこのときも、少しもイエス様のおっしゃることを受け止めようとしないのです。ところが、ベタニヤのマリヤはイエス様の埋葬の用意として香油を、しかもナルドの香油をぬってくれたのだ、とおっしゃるのです。立派なこととは、マリヤが主のお気持ちをちゃんと悟っていたことです。
 私たちは自分の欲が勝っていると、主のみことばが聞こえなくなってしまいます。私たちは神様に私の必要を、私の傷みを理解して欲しいとばかり願い勝ちですが、むしろ私たちは主のみこころを理解することが必要です。
 彼女の行動が立派な理由の二つ目は、彼女が主に対する信仰と愛の表現として、自分のもてるものの最高をおささげしたということです。結局、主の前に価値あるものは信仰と愛なのです。どれだけ大事業をしたか、どんなたくさんの本を書いたか、どれだけ有名になったかなどということは、天地万物の所有者であられる主にとってはさして意味あることではありません。主が求めていらっしゃるのは愛なのです。そして、主を愛している者は、自分の持てる余り物や傷物でなくて、自分の持てる最高最善のものをささげるものです。


ユダの裏切り

 この出来事の後、イスカリオテ・ユダは祭司長たちのもとへと走り、主イエスを奴隷の値銀30枚で売ってしまったのです。ユダについていろいろ想像をたくましくして同情的解釈をする人たちがいます。たとえば、ユダは他の弟子たちと同じようにイエスが世俗的王として立つことを期待していたのに、気弱なことをおっしゃるので、ショック療法によって立ち上がらせようとしたのだとか、いや、彼は貧しい人々のことを心にかける社会運動家であったが、それをイエス様が軽んじたから怒って敵に走ったのだ、とか。
しかし、聖書自体は、ユダには金銭欲の問題があったからだと、実も蓋もない現実を告げています。ヨハネ福音書は会計担当だったユダは、貧しい人々のことを心にかけていたのではない。彼は弟子団の財布から盗んでいたのだと書いてあります(ヨハネ12:6)。マリヤの愛の表現としての香油を、即座に「3百デナリ」とお金に換算したところを見ると、何でもお金に換算して価値を量る癖があったことがうかがわれます。「香油を300デナリで売れば、100デナリくらいは着服できたのに」とまで思ったのかどうかは知りませんが、カネになることは価値があり、カネにならないことは価値がないというのがユダの考え方であったのでしょう。
そういうユダには、マリヤの主に対する信仰や愛が理解できません。ユダは三年間主イエスについて十二弟子のひとりとして生活してきましたが、残念ながら、主のこころが、愛と信仰の価値がまるでわかっていなかったのであろうと言わざるを得ません。

結び
私たちはイスカリオテ・ユダを反面教師とし、ベタニヤのマリヤを教師として、いつも主のみことばに耳を傾け、主の心を理解すること、主の喜びを喜び、主の悲しみを悲しむ者となりたいと思います。