苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月14日  主が共におられるように

行くがよい。主がお前と共におられるように。
サムエル記上17章37節

 巨人ゴリヤテが主の陣営を嘲ったことに対して、若いダビデが義憤に燃えて立ち向かう決意を表明しきった場面、サウル王がダビデにかけたことば。サウルとしては、十中八九ダビデに勝ち目はあるまいという思いであったろうが、ここまで決意がたしかであるならば引き止めることもない、主がともにおられたら奇跡もなくはないかもしれぬという気持ちだったのだろうか。あるいは、この少年の果敢な行動と死が、おびえきったイスラエルを奮起させるかもしれぬと少々ずるい計算したのだろうか。わからない。
 しかし、サウルがどのような思いでいたにせよ、この短いフレーズ「主がお前とともにおられるように。」ということばは、どんな長々しい励ましのことばにも勝って、また重厚なよろいにも勝って、ダビデの力となったにちがいない。いったい、神の民にとっての最大の特権は、主がともにおられるということ、インマヌエルの事実をおいてほかにない。「たとえ天国に行こうと主が私とともにおられないなら、そこは私にとって地獄であり、たとえ地獄に行こうと主がともにおられるなら、そこは天国である」とは改革者のことばだったか。