苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

羊とやぎ

マタイ10:5-15,40-42
マタイ25:31-46

序.
 永遠の昔から生きておられる父子聖霊の神が天と地を創造したときから、世界の歴史は始まりました。その歴史を劇に譬えると、第一幕はノアの大洪水で審判を受けて閉じられました。今わたしたちが生きているこの第二幕もまた閉じられる日が来ます。それが、人の子つまり主イエス・キリストが来られて、世界を審判なさる日です。この二幕が終わると、第三幕で天地がひとつになって永遠の御国が始まります。
 24章から再臨の前兆と最後の審判の話が続いてきましたが、今回が再臨と最後の審判の話のラストです。ここまでみことばを読んで来てわかったのは、クリスチャンは自分の死を意識するのではなく、主の再臨を意識して生きるべきなのだ、ということです。

「25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。 25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、 25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」

 イエス様は王として来られて、世界中の人々を、右と左に、永遠の御国を相続する者と刑罰の火にはいる者とに分けます。パレスチナでは羊とヤギをしばしばいっしょに放牧するのですが、羊飼いがこれらを二つの群れに分けるばあい、羊は白がほとんどで、ヤギはほとんど黒なので、分けるのは簡単なのだそうです。そのように、終わりの日、主は世界の人々を分けるというのです。


1.「わたしの兄弟、最も小さい者」

(1)主の兄弟姉妹
 私たちは神様に直接お目にかかれたら、とか、イエス様が二千年前のユダヤでそうであったように、私たちのそばに来られたらなあとか思うかもしれません。けれども、主イエスはここで、いわば、「わたしは、あなたがたのところを、変装をした折々訪ねているのだよ。」とおっしゃっているわけです。
 イエス様は、どんなふうに変装をして来られるのでしょうか。越後のちりめん問屋とか、遊び人の金さんのようなお姿ではありません。イエス様は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとり」という姿であなたをお訪ねになります。
 では、キリストが「わたしの兄弟、しかも最も小さい者」とおっしゃるのは誰のことでしょうか?それは、よく話されているように、生活に困窮者している人という意味ではありません。生活に困窮している人々に援助することはもちろん良いことです。山谷農場の野宿者支援などももちろん神様の喜ばれる愛の業です。ただ、ここで主イエスが「わたしの兄弟」とおっしゃったのは、直接的には、そういう意味ではありません。
 主イエスが「わたしの兄弟」と呼んだ人々とは誰でしょう? 主イエスが伝道を始めて間もない頃、主イエスがしていることを理解出来ないでいた母マリヤと兄弟姉妹たちが主イエスをつれて帰ろうとしに来ました。そばにいた人が「お母さんたちが迎えに来られましたよ。」とイエス様に耳打ちしました。そのとき主イエスは次のようにおっしゃいました。マタイ12章48節以下をごらんください。

マタイ12:48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」 12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 12:50 天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 兄弟姉妹とは、主イエスを信じて「天の父のみこころを行う人々」のことです。


(2)「小さい者たち」
 しかも、イエス様が、神の家族のなかで「最も小さい者たち」と呼ばれたのは、ご自分の弟子である十二使徒をはじめとする伝道者たちのことです。マタイ福音書10章には、イエス様は弟子たちを二人組にして、福音を宣べ伝えさせるために、町町村村に派遣したことのことが記されています。そのとき、主イエスは弟子たちに、必要最小限のものだけ持って出かけるようにお命じになりました(マタイ10:9,10)。訪ねた町に、神の選んだ民がいれば、彼らが弟子たちを受け入れ、宿を提供し、食事を用意し、着物が必要なら着物を与えることになっているからと約束なさったのです。そこを拠点にして彼らは伝道をすることができました。(マタイ10:11-15) しかし、もしその町に弟子たちを受け入れる家が一軒もなければ、弟子たちは足の塵を払ってその町を去り、その町には神の怒りがとどまります。主から遣わされた弟子たちは、いわば、それぞれの町の試金石とされたのです。その町が救われるべきか、どうかの試金石です。
 そのように、主から派遣され福音を携えた弟子たちを受け入れる者は、主イエスを受け入れるのであり、主の福音を携えた弟子たちを拒絶する人は、主イエスを拒絶することを意味しました。この主から遣わされた弟子たちこそ、「小さい者たち」なのです。

「10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。・・・ 10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 使徒パウロをはじめとする異邦人への伝道者たちも同じような経験をしました。彼は地中海世界に福音を伝え、テサロニケ、コリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ・・・・といった町々に次々と教会が設立して行きました。当時の異邦人教会では礼拝専用会堂はなく、町にいくつもの家の集会があって、長老・執事と呼ばれる世話役がいました。それとともに、パウロのような巡回伝道者たちが、諸教会でみことばをとりつぎました。
 実際、使徒パウロは伝道旅行で、空腹であったり、野宿をしたり、何度も鞭打たれたり、投獄されたり、石打ちにされ、病気になり、とさまざまな目にあいましたが、神様を愛する兄弟姉妹に支えられて伝道を続けることができたのです。巡回伝道者たちは、主イエスが派遣した弟子たちと似た状況、いや異邦人相手ですからもっと困難な状況に置かれました(2コリント11:23-27)。
 こうして見ると、主イエスが福音の宣教者として派遣した弟子が、主イエスの言われる「最も小さな兄弟たち」だったことがよくわかるでしょう。


2.キリストが使節として人間を用いるわけ

(1)主イエスが人を用いるわけ
 それにしても、なぜ主イエスは、十二使徒であれパウロであれ、また今日までたくさんの人間を福音の宣教者、使節としてお立てになるのでしょうか。私もその端っこに加えられているわけですが。
 パウロは言いました。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:20,21)
 カルヴァンキリスト教綱要のなかで神様がある人々を代理人であるみことばの教師として、お立てになる理由を三つ述べています。第四篇3章1節。
 第一は、神は(ご自身でなく、また、天使でもなく)人間を用いることによって、神様が私たち人間をどんなに尊重していてくださるのかを明らかにするためです。
 第二は、私たちはこれによって最善のまた最も有効な謙遜の訓練を施されるためです。もし神様が天からご自身で語り給うたとすれば、神様のことばがすべての耳とすべてのたましいによってうやうやしくたちどころに受け入れられることは驚くにあたりません。目の当たりに神様をみたら誰もがしたがうでしょう。ところがどこかの小さい人間が神の御名によって語るとき、その人が我々に何らの点においてまさっていなくても、その人に神が与えた務めの前に、己をすなおに示すならば、神に対する私たちの敬虔と服従とを最高の証拠によって明らかにすることになります。
 第三は、一人の牧者が立てられて同時にみことばが聞かれるときに、兄弟姉妹相互の愛が育てられるからです。


(2)主は牧師・伝道者を「最も小さい者」と呼ばれた
 しかも、主イエスはご自分が遣わす弟子たち、伝道者・牧師を兄弟姉妹たちの中の「最も小さな者たち」と呼ばれたことは、とても大事なことだと思います。それは牧師や伝道者たちが、「私はキリストの代理人なのだ」「私の命令はキリストの命令だ」と、的外れな傲慢に膨れ上がらないためです。職人がその手に持つ小さな道具のように、自分は神の手に握られた道具にすぎないことを忘れないためです。
 もし牧師があるいは伝道者が、人々から尊ばれることがあるとすれば、それはその本人が立派であるからでなく、キリストから託された宝である福音の務めのゆえであり、そのことを敬虔な信徒のみなさんがわきまえているからにほかなりません。私自身、そのところを履き違えることがないように、自戒し続けています。これを使徒は「私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。」(2コリント4:7)と言いました。託された福音は尊い宝ですが、それを入れている器である私は素焼きのもろい器にすぎません。


(3)信仰と愛の関係
 この主の兄弟たち、その「最も小さい者」に対する愛の行為の有無が、その人の永遠の祝福か刑罰を決定するというのです。 しかし、疑問があります。これは聖書が他のところで何度も強調している、「人が神の前に罪をゆるされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」という教えとどのように調和するのでしょうか?
 それは、主イエスがここで話された兄弟たちが、福音の宣教者を意味しているということを理解すれば無理なくわかることです。

「10:40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 ・・・10:42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」

 伝道者たちが伝える福音を聞いて、「私は悔い改めてイエス様を救い主として信じます。」といって福音を信じた人は、罪をゆるされ永遠のいのちを受けます。そして永遠のいのちを受けたなら、その人はキリストの御霊を受けるので、兄弟愛を実践するのです。使徒パウロがピリピで伝道すると、神様はここに紫布の商人ルデヤという姉妹を用意していてくださいました。彼女は、福音を聞くとすぐに受け入れて、パウロとシラスに宿を提供し、食事や着物を与えて、彼らのピリピ伝道の拠点を提供しました(使徒16:11-15)。
 つまり、人が救われるのは確かに、キリストを信じる信仰によるのです。ですが、キリストを信じた人は、キリストの御霊を受けるので主にある兄弟姉妹を愛し、愛のわざを行うのです。ヨハネの手紙第一3:14 「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。」
 ルデヤだけでなく、使徒パウロをささえる聖徒たちが各地に何人もいたからこそ、パウロは伝道を続けることができました。ローマ書をはじめとして、手紙の末尾には、そうした敬虔な聖徒たちの名が記念として記されています。

16:3 キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。 16:4 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

3.御国の相続人のしるし・・善いわざ

(1)愛
 では、御国を相続する人々のしるしである善いわざとはなんでしょうか。ここで主イエスはその特徴を二点教えていらっしゃいます。第一は、それは愛の行いだということです。おなかがすかせていたらおにぎりを差し出し、喉が渇いていたら水をあげ、伝道旅行の途上、宿がなければ一夜の宿を提供し、服がないならば服をあげるというふうなことです。これらは、愛があればできることです。でも、愛がなければできないことです。大きな力をもっている人ならば、その愛は大きな業として現れるでしょうし、小さな子どもであったとしても、その愛を表現できるのです。

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

先日、御霊の賜物のことについて学んだように、神は愛ですから、愛がないなら、神の前にはどんな大きな事業も奇跡も無価値です。逆に、人の目にはたとい小さなことであっても、そこに愛があるならば、神の前には価値あることです。御国の相続人のしるしは、主にある兄弟姉妹に対する愛のわざです。


(2)善行は忘れること
 御国の相続人のしるしとしての善いわざのもうひとつの特徴は、自分が善を行ったことを忘れることです。王が、「きみたちはわたしに愛を施してくれた」と言ったとき、右側の人々はなんと答えましたか?37-39節。

「『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

 あの人にこんなに親切にしてやった、あの人には着物を上げた、この兄弟には食べ物を上げた、あの人には見舞いに訪ねてやった、この伝道者は牢屋まで訪ねてやった・・・というふうに、自分が重ねてきた善行を忘れる。キリストが私たちのうちに与えてくださったほんとうの愛は、善を施したなら、それを忘れてしまうものです。
 

むすび
 主イエスの再臨は近づいています。先週よりも、今週のほうが近くなっています。まず、キリストの十字架の福音によって自分の罪は償われ、神の子どもとされたことを確認することが大事です。そして、神の子どもとされた者として、キリストにある兄弟姉妹のために祈り、神様が示された愛の行いを実践しながら、その日を待ち望みましょう。