苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン7月2日  神に渇く

詩篇63:1

文語訳
ああ神よなんぢはわが神なり
われ切になんぢをたづねもとむ
水なき燥きおとろへたる地にあるごとく
わが霊魂はかわきて汝をのぞみ
わが肉體はなんぢを戀したふ

口語訳
神よ、あなたはわたしの神、
わたしは切にあなたをたずね求め、
わが魂はあなたをかわき望む。
水なき、かわき衰えた地にあるように、
わが肉体はあなたを慕いこがれる。

新改訳
神よ。あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私のたましいは、あなたに渇き、
私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

新共同訳
神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め、
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、わたしのからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。(詩63:2)
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 翻訳上の特徴。他の三つが「水なき燥きおとろへたる地にあるごとく」としているのに、新改訳のみが「水のない、砂漠の衰え果てた地で」としている。ヘブル本文ではbeという前置詞。新改訳はシンプルにそのまま訳して隠喩としている。
 詩人は神に渇き、神を求めている。たましいnefeshだけでなく、からだ(身)basharをもって神を渇望している。砂漠で給水できないと意識混濁し失神しやがてドライアップして死に至る。あの渇きと、神を求める渇きが、リアルに重ね合わせられている。
 今朝も梅雨にうるおされた緑豊かな道を散歩して帰宅して、パレスチナの詩人のいう砂漠における渇望がこの日本ではわからないかも、などと感じる次第。
 若い日、神を知らず、ただなんだか無我夢中で、あれを求め、これを求めて、ほんとうの満たしはなにも得られずにもやもやし、生きている意味はあるのかと自問していた頃、あのころを思い出す。