苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月28日  神のテオディセー

詩篇74:22
神よおきてなんぢの訟をあげつらひ愚かなるものの終日なんぢを謗れるをみこころに記たまへ

口語訳
神よ、起きてあなたの訴えをあげつらい、
愚かな者のひねもすあなたをあざけるのを
みこころにとめてください。

新改訳
神よ。立ち上がり、 あなたの言い分を立ててください。
愚か者が一日中あなたをそしっていることを 心に留めてください。

新共同訳
神よ、立ち上がり、御自分のために争ってください。
神を知らぬ者が絶えずあなたを嘲っているのを御心に留めてください。

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 文語、口語で「あげつらう」という訳語が不適切と判断して、新改訳は「言い分を立てる」新共同訳は「争う」としている。少なくとも現代語で「あげつらう」は「人の失敗をあげつらう」というふうに、よからぬ行為のニュアンスがあるので、それを神に求めるのはおかしなこと。
 課題は「テオディセー、神義論」である。神を毎日、嘲るやからがいる。詩人は神のために悔しくてならない。イスラエルの陣営をなぶりものにし、神の御名を嘲ったゴリヤテに対してダビデが憤りを覚えたように。だが、詩人は、ダビデのように言い返す力もない。だから、神に「あいつらに、言いたい放題言わせておいていいのですか。よいはずないではありませんか。」と訴え、神ご自身が、テオディセーに立ち上がってくさだい、と訴えるのである。
 詩人の、その気持ちはよくわかる。神を愛する者ならば、御名があしざまに言われているのにヘラヘラしていることはできない。「お前の母ちゃん、でべそー!」と言われて、怒らない子はいないように。
 神ご自身のテオディセーは、驚いたことに、御子の十字架の出来事であったと私は理解する。
「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」ローマ3:25,26