苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月27日  人の不思議

詩篇8:5
文語訳
只すこしく人を神よりも卑つくりて
榮と尊貴とをかうぶらせ

口語訳
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、

新改訳
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

新共同訳
神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせられました。(詩8:6)

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 「人とはいったい何者なのでしょう?」という問いかけの後のことば。この問いはヨブ記にも見える。
 もし、世界と人とが単なる物質のかたまりにすぎないとすれば、一切は相対的・時間的なものである。人の肉体もその一部である脳も相対的・時間的なものであり、したがって、人間が脳の活動によって生じる観念もすべて相対的・時間的なものであるはずである。ところが、不思議なことに、人間は「絶対」という観念を持つ。たとえば、「1+1=2」は絶対・永遠である。
 相対的・時間的であるはずの人間のなかに、なぜか絶対的永遠的な観念がある。これは不思議なことなのだ。ということは、この世界と人とが単なる物質のかたまりにすぎないという前提が間違えているということを意味している。この世界と人を支え、生かしている絶対的・永遠的ななにものかがある。
 まあ、こんなふうなことを、昔、デカルトは、もっと前にはアンセルムスが考えた。自らは相対・時間的なものであるながら人間は、なぜ絶対とか永遠とかいう思いを持っているのか。「神は人をご自分よりいくらか劣る者として」造ってくださったから、人間は時間的相対的であるから絶対・永遠をつかみ得ないが、永遠への憧れがその内側にあるからである。
 私たちが当たり前のように暮らしているこの世界は、唯物論者が考えるような単純な物質の塊ではない。世界と自分自身はとても不思議な存在なのだ。
 なんだか理屈っぽくなってしまった。