苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月22日  くるぶし

(2サムエル22:37)
文語訳
爾わが身の下の歩を恢廓しめたまへば我踝ふるへず

口語訳
あなたはわたしが歩く広い場所を与えられたので、
わたしの足はすべらなかった。

新改訳
あなたは私を大またで歩かせます。
私のくるぶしはよろけませんでした。

新共同訳
わたしの足は大きく踏み出し、くるぶしはよろめくことがない。
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 口語訳が他の訳とちがって、歩く場所が広いとしている。ツァアドがstepsなので、大またで歩くほうが正解のように思える。ダビデが堂々と歩くありさまを思い浮かべる。くるぶし(カルソル)はよろけず。
 小海に住んで初めてスピードスケート靴を履いてみた。氷上になんとしても立てないのである。フィギュアにかえたらかんたんに立てた。フィギュアはくるぶしを固めているから、バランスが悪くても簡単に立てた。くるぶしを固めることは大事なんだとわかった次第。そんなことを思い出した。そういえば、スラムダンクでゴリがくるぶしを負傷したとき、テーピングでがちがちに固めて、試合を続行していたなあ。
 なんだか、今朝は黙想にならない。
 生きる上でのくるぶしとはどこか?一日考えてみよう。