苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

福音ということばの乱用(3)・・・なぜ十字架の福音に徹底的にこだわるのか?

  「包括的福音理解」の論者たちは、「福音とは、ただ単にキリストの十字架の贖いによって、神の前に罪赦されて、天国にいれてもらえるということではなく、神の像を回復され、世界管理の任務を果たしていくことまでも福音なのだ」という。

 「上から目線で嫌なやつ」だといわれてしまいそうだけれど、筆者は「なにを、そんなことを今さら・・・」と感じてしまう。なんで、そんなふうに自分は感じてしまうのだろうか、と自分を振り返ってみた。すると、原因は自分が教会に通い始めたときにさかのぼることがわかった。私が最初に通った教会は、日本改革長老教会東須磨教会で、当時は増永俊雄牧師が牧会していらした。浪人生だった私が増永先生に最初に面談したとき、口には出さなかったが、胸に秘めていた自分の悩みは、「人生の目的とはなんなのか?」ということだった。対話の中で増永牧師は「私の生きる目的は、神の栄光を現わすことです。」といわれた。また「生活の全領域で神の栄光を現わすキリスト教をカルビニズムというのです」とも話された。

 その面談から5ヵ月後、教会に通い始め、イエスを神の御子と信じた私に、宣教師がプレゼントしてくれたのが、ジョン・ストット『信仰入門』であり、増永牧師が貸してくださったのは、岡田稔『カルヴィニズム概論』という書物だった。後者の内容を大雑把に言えば、世界観としてのカルヴィニズム・キリスト教だった。40年前のあいまいな記憶によれば・・・

 第一に、諸思想は人間の本性を正常と考えるノーマリズム、人間の本性は全く堕落して異常になっているというアブノーマリズムがある。前者はヒューマニズムであり、後者の典型はカルヴィニズムであり、両者の中間がローマ主義(カトリック)である。

 第二に、全的堕落から恩寵のみによって救われたキリスト者は、もともと創造のとき人類に与えられた文化命令にしたがって、学問・政治・芸術・科学など、生活の全領域において、神の栄光を現わすべきである。

 このような内容だったと思う。今にして思えば恥ずかしいかぎりだが、この書物を読んで、18歳の筆者は聖書もろくすっぽ読んでいないのに、なんだか自分が偉くなったような錯覚に陥ってしまった。だが、その数ヶ月後、聖霊はみことばをもって私に激しく迫ってくださり、自分がどんなに高慢であり、その高慢という醜い罪が神の御子イエス・キリストを十字架につけたのだということを教えてくださった。この十字架の福音によって罪赦され、日々悔い改めの人生をたどりつつ、おぼつかないながらも、自分の置かれた生活の場で、神のみこころを行なって生きていく、それがキリスト者の道であると思い知らされた。だから、大学時代にF.シェーファー『それでは如何に生きるべきか』などの本を読んだ。また、神学校で「伝道と社会的責任」というローザンヌ誓約の一節を教わったときも、すんなりと心に入ってきた。だが、同時に、ストットが優先順位は伝道だと言ったことも「さすが」とよくわかった。

 そういう経験をしてきたので、筆者にとってキリスト教は最初から世界観としてのキリスト教なのだが、同時に、世界観としてのキリスト教に対して警戒感がある。つまり、その世界観としてのキリスト教を生きるための大前提は、イエス・キリストの十字架による罪の贖いの福音が必要不可欠であって、もしそれを欠くならば、世界観としてのキリスト教など、ただ人を高慢にするむなしい妄想にすぎないという警戒感である。だから、筆者は「単にキリストの十字架の福音だけでなく・・・」などということばを聞くと、ピキッと反応して「罪のしみひとつない尊い神の御子が、その命を十字架に捨ててまで、私たちを赦してくださった。それを『単に』とはなんだ!」と思ってしまう。
 二つ提言しておきたい。

 第一は、すでに述べてきたことだが、聖書がいう「福音」と、「聖書的世界観」「社会的責任」を混同しないでいただきたい。聖書がいう福音とは、<キリストが私たちの罪のために死なれたこと、三日目によみがえったことである>(1コリント15:3,4)。人は、聖書的世界観では救われない。ただ、イエス・キリストの十字架の福音によって、神の前に罪赦されて救われる。

 第二は、「聖書的世界観」は、改革派神学においては「文化命令」の課題として考えられてきた。また、旧新約聖書を一貫する契約によって捉えるという今でいう「大きな物語」研究は、改革派神学では「契約神学」と呼ばれてきた。こうした聖書の解釈は2世紀のエイレナイオス以来、すでにある。まずは、こうした先達に学ぶことが得策であると思う。