苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主は泥棒のように

マタイ24:43−51

1 主は泥棒のように来る

 イエス様は大胆にご自分をさまざまなものに譬えます。共観福音書のなかで、花婿であるキリスト、王子であるキリスト、放蕩息子の父などはまあ普通です。銀貨をなくして血眼になって探しているおばさんというのもありますね。ヨハネ福音書では「わたしは世界の光です」「わたしはぶどうの木です」とか「わたしは羊の門です」とか「わたしは良い羊飼いです」とか。しかし、本日の箇所の前半では、イエス様はご自分を泥棒に譬えられたことです。

24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

ルルルル、ルルルル、ルルルルと電話がかかってきます。
「はい、小海キリスト教会の水草です」
「あの、はじめまして。私泥棒でございます。あさっての深夜1時すぎにうかがいます。」
というふうなことはありえないでしょう。それと同じことで、主イエスは必ず再び世界を審判し、私たちを審判し、世界を新しい天と新しい地として造り直すために近々いらっしゃるのですが、その日程については教えてくださらないのです。その日程については、父なる神様の胸に深く収められていて、御子イエス様もごぞんじなくて、あるとき、父が「では行って来なさい」とおっしゃるのを待っているのです。
 みなさんは、もし泥棒が今週末6月20日午前1時に裏口から侵入するとわかっていたら、どうしますか。事前に戸締りをきちんとして、もしかしたら、ある人は警察にもあらかじめ通報しておくことでしょう。主イエスが再び来られる日程がわかっていたら、同じようにその日に注意を集中するでしょう。・・・でも、その日までは用心もしないで、適当に生活をすることでしょう。
 しかし、泥棒は事前に連絡をくれることはない。ということなので、毎日用心深くしていなければなりません。主イエスが再臨なさるのは確実です。そして、偽キリストの出現、世界中での地震の頻発、戦争と戦争の噂、教会への迫害、福音が全民族に伝えられること、とさまざまな前兆を教えてくださいましたから、それが相当近いことも確かです。しかし、日程は決してわからないように神様は隠していますから、私たちは毎日毎日、いつおいでになってもよいように、注意深く生活する必要があります。あなたは、今週末に主が来られても、「はい。ようこそ。」とお迎えする用意はできているでしょうか。もし今週末、主が来られるとしたら、あなたがしておかねばならぬことが特にあるとしたら、それを今週前半に実行することです。


2.家の管理者のたとえ

(1)忠実で賢い管理者
 ついで、イエス様は、主人から家のしもべたちを任された管理人の譬えを話されます。

  24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。

 主人とはもちろん主イエスのことを指しています。「その家」とは教会のことです。「その家のしもべたち」とは、教会に集う信徒のことを意味しています。そして、彼らに食事時にはきちんきちんと与えるように任された管理人とは、牧師という立場の者たちのことを意味しています。「食事」とは、神のみことばの説教のことです。
 「わたしがゆだねた信徒たちのために、主の日ごとに、いのちのことばである聖書をしっかりと釈義して、瞑想して、わかりやすく表現している説教をきちんきちんと準備してお話しする忠実なかしこい牧師とは、いったい誰でしょう?」と主イエスは十二人の弟子たちに向かっておっしゃるわけです。
 牧師の務めは、教団の教規によれば、教務と事務があり13項目あります。しかし、その主な任務は、主の日ごと、祈り会やその他の機会にする聖書の解き明かしである説教と聖礼典です。玄米ご飯のように滋養に満ちた説教。みなさんの生きる力となる説教を、と私は主のしもべとして願って説教を準備しています。だいたい一ヶ月前から見通しを立て、月曜に筆を起こし、金曜日にはほぼ出来上がるようにして、土曜日に原稿は仕上げます。ますます説教には心血を注ぎ込んでまいりたいと思います。
 もっとも、説教は説教者が語ることで完結するわけではありません。説教は、書斎でされた説教、説教壇から語られた説教、みなさんが聴いた説教、そして、みなさんが、それぞれの教会生活において、家庭生活において、御霊の実を結んだときにこそ、説教は完結するのです。ですから、説教は説教者と会衆の共同作業です。
 それはともかくとして、忠実に賢く滋養あるみことばの振る舞いをしているならば、幸いです。主が再び来られて審判が行われるとき、主の期待にしっかりと答えたご褒美として、さらに全財産までも主からゆだねていただくことになります

24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

 地上で忠実にみことばのご用をしていたら、天国に行ったら少し暇になるかと思ったら、そうではないのですね。大きな期待を受けて、さらに多くのご用があるようです。ただ、地上の場合のように睡眠不足になったり、スランプに陥ったりなどというストレスはないと思いますが。


(2)愚かで不忠実な管理者
 しかし、終わりの時代には偽預言者、偽教師、偽キリストまでも多く出現するとイエス様は預言なさいました。その振る舞いは次のとおりです。

24:48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、
24:49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、

 悪いしもべの特徴は第一に、「主人はまだまだ帰るまい」と思っているということです。つまり、悪い神の僕は、「キリストの再臨があるとしても、それはずっと先のことにちがいない」と考えるか、あるいは、「キリストの再臨などあるわけない」というふうに考えるのです。自分が主キリストの前に引き出されて、教師として、格別きびしいさばきを受けなければならないという警告を(ヤコブ書)をすっかり忘れて、気の緩んだ生活をしているのです。
 悪い僕の特徴の第二は、「その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたり」とあるように、自分が神に立てられた者だということをかさに着て、信徒を暴君的に支配することです。
 確かに、エペソ書に、「キリストが教会にある人を使徒、ある人を教師、また、ある人を預言者または・・・・」としてお立てになりましたとあるように、教会の牧師は神に立てられた神のしもべであることは事実です。牧師が神のしもべとして正しくみことばを説き明かしているかぎり、そのことばに従うことは神にしたがうことを意味します。けれども、その牧師が神のしもべであり主イエスを模範としているのですから、主イエスが自らを低くなさったように、恐れおののいて自らへりくだるべきです。聖書のなかで、イエス様を除いて、もっとも偉大な指導者とはモーセでしょう。その「モーセは地上でもっとも謙遜な人であった」とあります。
 しかし、残念なことですが終わりの時代の堕落した風潮のなかで、その風潮に染まってしまった牧師、伝道者のなかには、教会の兄弟姉妹を聖書の正しい解き明かしである説教と聖礼典をもって養うことをせず、教会の貧しい人々を食い物にして、自らは快楽と富にふけるような不届き者が出てくるのだと言われています。私は牧師として、今まで申し上げたことをもって自戒しながら、主から与えられた任務をまっとうしたいと願っています。信徒のみなさんには、自分のためだけでなく、ぜひ牧師のためにもとりなし祈ってくださるようにお願いします。

3 再臨

 やがて、しもべの主人が帰ってきます。

24:50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
24:51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 主はまるで泥棒のように、「思いがけない日の思いがけない時間に」帰って来ます。それはいつだろう?とすぐに考えてしまいそうですが、想像がついたなら、それは「思いがけない日の思いがけない時間」ではありませんから、想像がついた日時ではないことでしょう。
 主が来られると「彼をきびしく罰する」とあります。そうです。教師に対するさばきは格別に厳しいものだということはヤコブの手紙にしっかりと書かれています。牧師としては、たいへんなことですが、やむをえません。
 悪魔は教会の歴史のなかで説教者、牧師を攻撃してきました。説教壇から、真理のことばが語られなくなれば、悪魔は十把ひとからげに信徒たちを滅ぼしてしまうことができるからです。「罪などで悩むひつようはありません。」とか「悔い改めなど必要ありません。神は愛です。」とか「偶像崇拝といっても形式だけですから問題ありません」などと、説教卓から語られたら信徒のみなさんは滅びてしまいます。ですから、教師のさばきが格別に厳しいのはやむをえないことです。
 
4.適用

 本日の箇所は、直接的には、神の家である教会に仕える牧師や伝道師たちへの警告です。牧師は、自分自身に対して主が語られた警告としてしっかりと聞いて、悔い改めつつ教会に仕えてゆきます。
ですが、これはキリストを信じる信徒ひとりひとりに適用されることです。なぜなら、特に新約の時代には信徒すべてに聖霊が注がれ、復活の証人とさせられたからです。
私たちの時代、福音は、信徒ひとりひとりに託されています。ですから、みことばを読み、みことばに聞いて自分自身の魂を養う責任がひとりひとりに、あなたに、あるのです。
ウェストミンスター大教理問答は説教についての信徒の務めを読みます。

問い160 みことばの説教を聞くものに、何が求められているか?
答え みことばをの説教を聴く者に、次のことが求められている。すなわち、
勤勉・準備・祈りをもってそれに聞くこと、
聴いた説教を聖書によって調べること、
信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみことばとして受け入れること、
それについて瞑想し、語り合うこと、
心に蓄えて、生活のなかで、その実を結ぶことである。


主は、あなたにも福音を託された。それは自分が養われることと、家族や知人たちにも、そのいのちの糧である福音を、その生き方と祈りと言葉を持ってわかつことが期待されています。今週末、主が再び来られたとしても、よいという覚悟をもって新しい週を歩みだしましょう。