苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「福音」ということばの乱用

このごろ思うこと。キリスト教界は「福音」ということばを乱用する傾向があるんじゃないか。福音理解の深まりとか、広がりとか言っているけれど。
 むかしは貧困などの問題を抱えた社会をキリスト教的精神をもって改良する運動を「社会的福音」と呼んだ。神学的にはリベラルな背景があった。
 近年は、福音派の沖縄伝道会議でテーマとなった「和解の福音」。これは「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」(エペソ2:14)を引用して、民族と民族の壁、国と国の壁、さらに教派の壁とか、神学校の壁とか、そういう壁をとっぱらって仲直りする運動を意味している。
 エペソ書のこの箇所は、ほんらいユダヤ人と異邦人の間にあった律法による敵意の壁を意味している。キリストが来られて、律法を完成し終わらせたので、その壁がなくなったことを言っている。それをゆるく適用して、キリストにあって赦された者どうしとして、過去の敵意を乗り越えてゆるし合おうという運動、それを「和解の福音」というらしい。
 だが、いずれも根本的に間違っていると、実は、わたしは思っている。福音とは、神が罪人のためになさった神のわざであって、人間のわざではないから。「社会福音」であれ「和解の福音」であれ、神のわざとしての福音と、その恵みへの応答として人がなすことがごちゃごちゃになっている。福音は神のわざ、律法は人のわざだと、ルターがずばりとどこかに書いていた。
 パウロが、これこそ福音として提示していることは下記のとおり。

「 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。(中略) 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(1コリント15:1−4)

 直接的に福音と関係のある和解をいうならば、それは、神と人との和解をつくりだしたキリストにおける神のわざである。