苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月28日

詩篇23:6
文語訳「わが世にあらん限りはかならず恩惠と憐憫とわれにそひきたらん 我はとこしへにヱホバの宮にすまん 」

口語訳「わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」

新改訳「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。」

新共同訳「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」

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 多くの人の特愛の一篇。小海の教会では毎月一度は、礼拝でともに朗読することにしています。「主はわたしの羊飼い。わたしは乏しいことが有りません。主はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。・・・」と暗唱してしまいました。
 格別、この結びの一節は私たち伝道者夫婦にとってたいせつな一節です。というのは、21年前、信州の山間地に開拓伝道に立つと決心して妻に伝えたとき、妻は「はい」と答えて祈り始めて一ヶ月ほどたったとき、詩篇23篇のこの一節が示された、と言いました。「慈しみと恵みが追いかけてきてくれるから、大丈夫」
 人間的に見通しは立たないけれど、主にしたがう道ならば、生涯、主の慈しみと恵みとが追いかけて来てくださる。なんとかなる。食いはぐれることはない。・・・と信じることができました。
 ここを読むたび、サムエル・ボイル宣教師が、羊の群れを「慈しみ」と「恵み」という名の牧羊犬が追ってゆくのだと記された講解を思い出します。
 「われはとこしえに主の家に住まん」