苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月18日  砕かれた霊

詩篇51:17
神のもとめたまふ祭物はくだけたる霊魂なり
神よなんぢは碎けたる悔しこころを藐しめたまふまじ(文語)

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。(口語訳)

神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。(新改訳)

打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。(新共同訳詩51:19)

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 「くだけた雰囲気」というと、くつろいだ雰囲気、ざっくばらんな雰囲気という意味、「くだけた表現」でも同じように形式ばらない平易で日常的な表現という意味である。「くだけた人」とはその伝でいえば、ざっくばらんな人という意味になってしまう。
 だが、キリスト教用語では「くだけた人」「砕かれた人」「砕かれた魂」というと、神の前に徹底的に自分の無力と罪とを知ってへりくだった人を意味している。砕くということばは、骨、偶像なんでも壊すということば。だが、文脈から、「砕かれた霊」が「ざっくばらんな霊」だと取る読者はだれもいないだろう。語の意味は文脈内で成立していることを示すよい例。
 文脈的には、前節に神はいけにえを好まれないとあり、しかし、次節にいけにえを主はよろこばれるとある。その違いは、主へのささげ物に「砕かれた悔いた心」がともなっているか、いないかということである。いやむしろ、いけにえというものは砕かれた悔いた心の表現としてこそ意味があるということ。
 神は霊であるから、霊とまことをもって礼拝しなければならないとは、あまりにも当然のことであるのだが、おまえの礼拝は、時に形だけうわべだけになってしまっていることがあるのではないか、と内を探られる思い。