苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

金銭についての聖書の教え

 貨幣制度というものが出来る以前、人は物々交換によって、自分が必要なものを他の人から手に入れていた。けれども、取引相手がこちらの差し出す物を欲しない場合、そこに物々交換は成り立たないという不便があった。
 そこで、誰もが普遍的に必要とするもので保存のきく物が貨幣としての働きをするようになる。それは米や塩であったりもしたが、もう少し抽象化して貝殻をもちいた貨幣が生まれてくる。やがて貨幣に黄金、銀、銅といった価値ある金属が用いられるようになるが、その場合、貨幣自体の金属としての価値がその裏づけとなっていたが、紙幣の場合にはそのもの自体としての価値とは離れて約束事としての価値のみがあるということになる。いずれの貨幣にせよ、貨幣で物が買えるというのは、貨幣に物の価値を換算することによって可能となっている。
 だが、この換算可能という便利な性質から、貨幣の危険な面が生じてきた。それは、世にある物の価値は何でも貨幣で測れるという錯覚をもたらすことである。聖書に例をさがせば、主イエスが間もなくエルサレムに入城し十字架にかかる心積もりでいらしたとき、なんとなくそれを察したベタニヤのマリヤが主のために愛の表現としてささげたナルドの香油を、イスカリオテ・ユダが「300デナリに売れたのに!」と換算したことがある。人の愛も生命もカネに換算するという貨幣の罠である。ユダは銀三十枚でイエスを売った。
 貨幣そのものには実は価値はない。貨幣によって交換されるものに価値がある。しかし、貨幣が流通すると、貨幣そものに価値があるかのような錯覚を起こす。また貨幣が価値の物差しとなる。そうして、ある人々は蓄財に走り守銭奴となり、神を見失い、滅びてしまう。

ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。 富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。 (1テモテ6:8−10)

 主イエスは、山上の説教のなかで、富というものはえてして神に成り代わって神になろうとする、つまり、偶像となるものだと教えて警告された。マモニズムである。

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 6:20むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 6:21あなたの宝のある所には、心もあるからである。 6:22目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 6:23しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 6:24だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイ6:17−24)

 特に24節に注意したい。そして、富の奴隷・崇拝者の特徴は「思い煩い」である。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、いくら儲かったか、いくら損したか、あの株はどうか、相場はどうか・・・そいう思い煩いで心が一杯になって、神のことを見失って滅びてしまう。
 では、主イエスはどのようにすれば、富の奴隷・崇拝者という惨めな境遇に陥らないで、その主人として管理することができると教えていらっしゃるだろうか。地上ではなく、天に宝を積むことである。金のあるところに、その人の心はある。だからその金を地上にでなく、天に積むならば、人は心を天にもつことができる。天の父のもとに心を持っていれば、その心は間違いなく平安であり、金に支配されず金を支配することができる。
 では、どのようにして、人は天に宝を積むことができるだろうか。聖書によれば、天に宝を積むには二つの窓口がある。一つは、神の宮にささげることである。

「3:10わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。 3:11わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。」

 旧約時代この神にささげられた十分の一は宮に仕えるため相続地を与えられなかったレビ人に与えられ(民数18:21)、また援助を必要とするみなしご、やもめ、在留異国人のためにも用いられた(申命記14:22,23)。新約聖書で十分の一にふれているのは、主イエスのことば一箇所のみである(マタイ23:23)新約聖書では、おのおのその収入に応じてささげなさいと勧められている(1コリント16:2)。献金の扱い、基準については第二コリント8章全体に詳しい。
 天に宝を積むためのもう一つの窓口は、寄るべのない貧しい人に施しをすることである。箴言のなかの代表的な箇所。

寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。
主がその善行に報いてくださる。(箴言19:17)

 新約時代でも同じだった。初代教会では、メンバーたちが自発的に自分の富・資産をもってきて、やもめや孤児たちの配給がなされていたことが、使徒の働きに記されている(使途4:32−35、6:1)。
 天地万物のいっさいは神の所有であり、神はその幾分かを私たちに託される。ところが人はえてして、それが神に託されたものであることを忘れてしまい、すべてを自分のものだと思いこむ。そうして、禁断の木から盗って食べたアダムのように滅びてしまう。人は託されたものの一部分を聖別し天に積むことによって、心を天に持ち、「私が所有するすべては主が好意をもって私に託してくださったものなのだ」という事実を忘れないでいることができる。一部を天に蓄え、手元に残されたものも主の御心をたずねながら感謝して用いるというのが、神の民としての金銭管理である。