苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

パリサイ人の誤り

マタイ23章

 十字架を目指して都エルサレムに入られたイエス様に、まず論争を挑んできたのはサドカイ派の合理主義者たちで、次いで挑んできたのがパリサイ派の人々でした。聖書も神の力も知らないサドカイ派に対して、パリサイ派の人々の世界観は相当イエス様に近いものがありました。彼らは聖書は神のことばであると信じておりましたし、万物を創造した神は今もこの世界に働きかける生ける神であって、天使も、復活も、死者の奇跡もあることであると信じて教えていました。けれども、イエス様は立場が近いからこそ惑わされないように警戒するようにと教えられました。彼らの問題は「偽善」でした。

1 言うが実行しない:有言無実行

23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
23:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。

 偽善とは、第一に、立派なこと、正しい行いを人に教えはするけれども、それを自分自身は実行しないことです。パウロが後に書いたことばでいえば、人々に盗むなと説きながら、自javascript:;分は盗み、人々に姦淫するなと説きながら自分は姦淫し、人々に偶像を拝むなといいながら自分は神殿のものをかすめるといったことです(ローマ2:21,22参照)。不言実行の反対で、有言無実行。

2 虚栄心

 偽善の第二の要素は、人に崇められたい、尊敬されたいという虚栄心です。

23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。

 「経札」とは「律法章句を記した羊皮紙;またそれを納めた革の小箱で,朝の祈りのときに身につける」ものです。申命記6章に「6:4 聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。・・・ 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。」とあるものです。それが人の目につくようにわざわざ幅広くつくるラビがいたのですね。

23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

日本のプロテスタント教会では牧師を「先生」と呼ぶばあいがほとんどのようですから、このみことばは気になりますね。「先生」と訳されていることばラビということばで、日本語の「先生」のように、ちょっとした敬意を表すために誰にでも使える軽いことばではありません。日本語の先生というのは、学校や塾の教員、医者、弁護士、政治家、そしてプロテスタント教会の牧師に対してなどとても広い範囲で使われます。ですが、ラビということばは神政が行われていたユダヤでの宗教的指導者、律法の教師についてのみ用いられた尊称ですから、ラビと呼ばれることにはたいへん名誉なことだったわけですから、虚栄心をくすぐられるわけです。さらに「父」と呼ぶな、「師」と呼ぶなと続きます。

23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。

 「先生、父、師と呼ぶな」というのは、解釈上文字どおり取るべきでしょうか。どうもそうは思えません。というのは使徒の働きで、使徒たちはときに「先生」と呼ばれて、それに抗議していませんし、エペソ書を見れば、「キリストがある人を使徒、ある人を預言者、ある人を教師、ある人を牧師として立てた。」ともあるからです。「右目があなたをつまずかせるなら。右目をくりぬけ」というのと同じように、ここはイエス様がときどき用いる誇張法と取るのが適切でしょう。何を言いたいがための誇張法でしょうか。イエス様が言いたいのは次のことです。

23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 ある教会に行ったら、そこでは「ぼくし」を「牧仕」と書いてありました。意味のあることでしょう。そう書くかどうかはともかく、ラビであれ先生であれ牧師であれ大臣であれ社長であれ、あるいは父親、家長であれ、なにか指導的な立場に立つ者は悪魔から虚栄という誘惑にあいがちなのだ。仕えるためにこそ、あなたがたは指導者とされたことを、しっかりと肝に銘じるべきです。

3 人々を天国からさえぎっている

  23:13 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。
23:14 〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。〕
  23:15 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。

 天の御国(神の支配の下)に人々を導くのが、神が私たちにくださった聖なる務めであると自負していた熱心な律法学者・パリサイ人にとって、これほどひどい侮辱はなかったでしょう。ここを見ると、彼らは地中海世界の異邦人伝道にも、熱心に励んでいました。ですが、回心した異邦人が巡礼としてエルサレム神殿にやってくると、異邦人の庭は両替人・いけにえ商で満ちていました。異邦人はがっかりしてしまったのです。

4 形式主義的律法解釈

 それは、彼らの宗教的な欺瞞、偽善という致命的な宗教的病気を、自分の導く人々に伝染させていたからです。その致命的な宗教的病気の根っこには、彼らの形式主義的律法解釈がありました。16節から22節に言われていることです。

  23:16 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』 23:17 愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。 23:18 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
23:19 目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。 23:20 だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。 23:21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。 23:22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

 形式主義というのは、うわべの形を整えることにのみ集中して、中身・内実を疎かにすることです。その一例が、この誓いにかんすることです。誓ったことは実行するという誠実な心構えがなにより大事です。実行するつもりが最初からないならば、誓いなどしてはならないのです。
ところが、「誓いは必ず果たさねばならない」というルールがあるので、そのルールを遵守したことにするため、パリサイ派は破っても良い誓いと破ってはいけない誓いというのを設定したのです。それで形ばかりの誓いなどという、あってはならないことが蔓延することになりました。
 
 形式主義の悪影響は、誓いだけではすまず、あらゆることに浸透してゆきました。
 

23:23 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。
23:24 目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。
23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。
  23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

 物事には形と中身があります。たしかに両方とも必要ですけれど、形と中身のどちらが大事であるかといえば、中身です。牛乳パックは牛乳を入れるためにあります。牛乳パックが牛乳のためにあるのではありません。形式主義に陥るというのは、牛乳パックに懲りすぎて、中身の牛乳は腐っていてもOKというようなものです。形式主義に陥るならば、形式が整っていることをその中身を見失っていても気づかないで、満足してしまうのです。
 悔い改めの心の表現として断食をするとしたら、それは意味のあることです。でも悔い改めの悲しみもなく断食という形をするとしたら、それは無意味です。神への愛と感謝の表現として献金をするのは意味があります。しかし、アナニヤのように自己顕示のために、献金することは罪です。中身の表現としての形であるべきです。
 
6 罪の自覚なく、悔い改めない(自己義認)
 
 しかも、偽善という罪が、他のもろもろの罪と比べて恐ろしい点は、形式・うわべを美しく整えているゆえに、自分の醜い罪に気づかないという点です。人殺し、盗み、姦淫、偶像礼拝などさまざまの罪は、それを犯すと良心が痛み、恥ずかしいものですが、偽善という罪の場合には、そういう良心の呵責といったことが無い場合があるのが恐ろしいのです。この点について、主イエスはパリサイ人たちが旧約時代の人々の罪をさばきながら、自分の罪にはまるで気づかないという問題をあげていらっしゃいます。

23:29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、 23:30 『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。
23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。

 旧約時代、イザヤ、エレミヤ、エリヤといった預言者たちが登場しましたが、彼らは当時のイスラエルの民からひどい迫害を受けました。そうした過去を振り返って、「先祖たちはなんと馬鹿だったのだろう。」とあなたたちは言っているけれど、そういうふうに他者の罪には敏感だけれど、自分の罪に気づかず悔い改めないその頑なな心は、預言者たちを迫害した君たちの先祖とそっくりじゃないか、と主イエスはおっしゃるのです。
 そうして、この都エルサレムにはまもなく神のさばきが下ろうとしていることを主イエスは嘆かれるのです。

23:32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。 23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。 23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。 23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
23:36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
  23:37 ああ、エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

結び

というわけですから、私たちもパリサイ人たちを見て、「なんだ。パリサイ人は。私たちがイエス様の時代に生きていたら、イエス様を十字架にかけるなどという馬鹿なことはしなかったのに。」と言っていたら、自分がパリサイ派の子孫であることを自ら証言しているようなものです。
むしろ逆に、自分はパリサイ派と同じような偽善の罪があることを神様の前に認めて、反面教師として彼らから学びましょう。言うだけで自分は実行しないという罪。人にあがめられたい尊敬されたいという虚栄心。ついつい形だけうわべだけ整えているうちに、肝心な正義や誠実やあわれみを疎かにしていたこと。
私たちは、語ったことは実行する誠実さをもっていましょう。高ぶらず謙遜であること。正義と誠実は儀式以上にたいせつなこと。悔い改めて、主イエスのご栄光のために生きてゆきましょう。