苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月9日

イザヤ57:11
なんぢ誰をおそれ誰のゆゑに慴きて
いつはりをいひ
我をおもはず亦そのことを心におかざりしや
われ久しく默したれど
汝かへりて我をおそれざりしにあらずや(文語訳)

あなたはだれをおじ恐れて、
偽りを言い、
わたしを覚えず、
また心におかなかったのか。
わたしが久しく黙っていたために、
あなたはわたしを恐れなかったのではなかったか。(口語訳)

あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、
まやかしを言うのか。
あなたはわたしを思い出さず、
心にも留めなかった。
わたしが久しく、黙っていたので、
わたしを恐れないのではないか。(新改訳)

誰におびえ、誰を恐れて、
お前は欺くのか。
お前はわたしを心に留めず
心にかけることもしなかった。
わたしがとこしえに沈黙していると思って
わたしを畏れないのか(新共同訳)
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57章1節-13節がひとまとまり。1、2節と13節末尾は義人すなわち主に身を寄せる者のことを記す。義人は無視され排除される時代風潮はあるが、まことの神を信頼する義人は平安である。
 これに挟み込まれ、対比されて3節から13節前半は偶像崇拝者への非難が記されている。カナン土着の豊穣儀礼偶像崇拝者の淫らな振る舞いが3-9節に記される。偶像に頼る彼らはそれなりに長旅にも疲れず元気である(10節)。だが、本11節で、彼らはおびえ、恐れ、まやかしをいうという特徴があるという。これはご利益で元気はつらつだけれど、他方では「タタリ」を恐れるということを言っているのだろうか?
 主に身を寄せる者でありたい。