苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン5月4日   広いところに

詩篇31:8
われを仇の手にとぢこめしめたまはず わが足をひろきところに立たまへばなり(文語訳)

わたしを敵の手にわたさず、
わたしの足を広い所に立たせられたからです。(口語)

あなたは私を敵の手に渡さず、
私の足を広い所に立たせてくださいました。(新改訳)

わたしを敵の手に渡すことなく、
わたしの足を、広い所に立たせてくださいました。(新共同訳31:9)

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 訳の特徴点は、文語訳が「とぢこめしめたまはず」としている点である。文語訳は「ひろきところ」との対比として、この訳を採用したのだろう。ヘブル語ではsagarのhiph型。qalはshut up,hiphはshut upとdeliverという訳語が付けられているから、原義としては「閉じ込める」のほうなのだろう。文語訳は「仇の手にとぢこめしめたまはず 」と、日本語としてはちょっと変だけれど、なんとか「ひろきところ」とのコントラストを表現している。
 パレスチナの山岳地帯での戦闘において、逃げ道のない谷あいに追い込まれて閉じ込められてしまうといったニュアンスではなかろうか。 それに対して「広いところ」に出れば、いのちが保障されたも同じである。主は、主を信じる者を「広いところ」に立たせてくださる。
 また、「広いところ」で思い出すのは、アブラハムの息子イサクの井戸掘りの記事である。彼は父がかつて掘った井戸を掘りなおして、水を得たが、敵は「それは俺のだ」と言う。イサクは争わず別の地でまた父の掘った井戸を掘りなおして水を得るが、またも敵は「それは俺の井戸だ」という、そんなことを繰り返しているうちに、イサクは「広いところ」に導かれ、そこで井戸を得た。敵に追い立てられていたのだが、実はそれは彼を狭いところから、「広いところ」へと導く主の御手であった。
 主を信頼する者は、あわてず騒がず、今の一歩を主のみこころにしたがって進みたい。