苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

告白的信仰・・・同盟教団信仰告白(1)

ローマ10章10節
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

序 私たち小海キリスト教会は、2015年度「信仰告白に生きる」という標語を掲げて歩んでまいりましょうと決めてスタートしました。その具体的取り組みの一つとして、日本同盟基督教団信仰告白(2013年改訂)8か条を礼拝説教で学びましょうということになりました。まず、一緒に読んでみましょう。

日本同盟基督教団 信仰告白(2013年改訂)

本教団は、聖書の啓示するイエス・キリストを主とする公同教会の一員であり、聖書信仰に立って次の信仰を告白する。
「我らは、聖書において啓示され、使徒信条をはじめとする公同の信条が言い表し、宗教改革において鮮明にされた信仰にもとづいて、次のように信じ、告白する。

1. 旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、神の救いのご計画の全体を啓示し、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教える信仰と生活の唯一絶対の規範である。

2.神は霊であり、唯一全能の主である。神は永遠に父と子と聖霊の三位一体であって、その本質において同一であり、力と栄光とを等しくする。

3.神は、永遠の御旨により万物を創造し、造られたものを摂理によって統べ治める絶対主権者である。

4.はじめに人は、神のかたちに創造され、神と正しい関係にあった。しかしサタンに誘惑され、神のいましめに背いて罪を犯し、神のかたちを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者である。自分の努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。

5.主イエス・キリストは、父なる神のひとり子であって、聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれたまことの神にしてまことの人である。主は我らに代わって十字架にかかり、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者の中からよみがえり、我らのために贖いを成し遂げ、我らに永遠のいのちを与えた。主は天に昇り、父なる神の右の座に着き、大祭司として今も我らのために執り成している。

6.聖霊は、我らに父と子を示し、罪を認めさせ、赦しを与え、我らを新たに生まれさせ、神の子とする。人は、自分の行いによらず神の恵みにより、主イエス・キリストの贖いのゆえに、キリストを信じるただその信仰によって義と認められる。さらに、聖霊は、助け主、慰め主として我らの中に住み、我らを主と同じかたちに造りかえ、我らに御旨を行わせ、世の終わりまで我らとともにあり、我らをキリストとの共同相続人とする。

7.教会は、聖霊によって召し出された神の民、主イエス・キリストをかしらとするからだであり、羊飼いなる主の御声にのみ聴き従う羊の群れである。地上の教会は、再び来られる主を待ち望みつつ礼拝し、みことばを説教し、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、聖霊の力によって全世界に福音を宣べ伝える。

8.終わりの時に、主イエス・キリストはみからだをもって再臨し、生ける者と死せる者とを審判する。主は我らをからだをもってよみがえらせ、我らをご自身の栄光と同じ姿に造りかえ、万物を新たにし、神の国を完成する。アーメン。」

 朗読して長いなと感じられたでしょうか。たしかに使徒信条よりは詳しいのですが、これは簡易信条と呼ばれるスタイルで、聖書の要点を簡潔にまとめたものです。たとえば改革派教会やルター派教会などは、一冊の本になるくらい詳しくて長い信仰告白文をもっています。私どもは、この年度、これを月に一度一緒に告白しつつ学んでいきます。


1 兄弟姉妹と同じことを言う

 キリスト教信仰は告白的信仰です。告白するとは、ギリシャ語でホモロゲインといいます。これは「同じことを言う」という意味です。「同じことを言う」ということから信仰告白の二つの面を考えてみたいと思います。1つは、「主にある兄弟姉妹と、神と神のみこころについて信じている同じことを言う」ということです。
信仰告白というものが歴史上どのようにして出来てきたかということを少しお話しましょう。前文には、「聖書において啓示され、使徒信条をはじめとする公同の信条が言い表し、宗教改革において鮮明にされた信仰」と書かれています。<聖書―公同の信条―宗教改革>という三段跳びです。

●聖書の中の信仰告白
 神様からの啓示そのものであるのは聖書66巻だけですから、これに付け足してはいけないし、これから削り取ってもいけません。使徒信条をはじめとする公同信条、宗教改革時代のいろいろな信条、また、同盟基督教団の信仰告白は、啓示ではありません。これらの信仰告白文は「啓示である聖書を私たちはこのように理解します」という要約です。
 とはいうものの、実は、新約聖書自体のなかに、聖書が完成していなかった初代教会時代における信仰告白文であろうといわれる箇所が、いくつかあります。二つだけ例を挙げておきます。

「2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)

 パウロは当時すでに定式化されたキリストに関する信仰告白文を引用しつつ、ピリピの兄弟姉妹たちに話しているのです。もう一つ挙げてみましょう。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)

 やはり、ここでもパウロはこの鍵括弧に入れられた部分の定式化された告白文を引用しています。なぜ、このような告白文が生じたのか?それは、諸教会、諸信徒の信じる内容にかんする合意事項が確認される必要があったからです。「 私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)とあります。信仰の一致と神の御子に関する知識の一致が、キリストのからだである教会の絆なのです。教会というのは趣味がいっしょだからとか、馬が合うからとか、職業がいっしょだからとか、肌の色や国籍がいっしょだから一つであるわけでなく、信仰が一つだから結び合わされているのです。
「告白」ということばは同じことを言うこと。イエス様がどのようなお方であるか、イエス様が何をしてくださったのかについて同じことを信じて、同じことばで言い表す、それが信仰告白です。信仰の一致、御子にかんする知識の一致、それが信仰告白文となったのです。信仰告白は主にある兄弟姉妹を結びつけるのです。

●公同信条
聖書の啓示が完結して後、信仰告白文が多く作り出された時代というのは、一つは、初代教会から、キリスト教多神教ローマ帝国のなかに福音が広がっていった2世紀から5世紀で、この時代に成立したのが4つの公同信条です。この時代、ユダヤ教と区別して、また異教の神々の宗教の教えることと区別して、私たちキリスト教会は聖書をこのように信じるのだということつまり、正統教理が確立されました。使徒信条、ニカヤ・コンスタンチノポリス信条、カルケドン信条、アタナシオス信条といった「公同信条」がこの時代に生み出されました。そのおもな内容は、三位一体論、キリストの二性一人格論です。神はどのようなお方であるか、キリストはどのようなお方であるかということが明確にされました。
ひとつ私たちも毎月第一主日に告白する使徒信条をとりあげておきましょう。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン

父、子、聖霊の三位一体の順序で告白されていることがわかりますが、父と聖霊にかんする告白に対して、「われらの主イエス・キリストを信ず」に続くキリスト告白の分量だけが、アンバランスなほど多いことに気づくでしょう。なぜこういうことになっているのでしょうか? それは、当時の教会において父なる神と聖霊なる神については、さしたる異論はなかったので詳しく告白する必要がなかったのですが、キリスト論についてはグノーシス主義と呼ばれる異論・異端が存在していたからです。あの教えは間違いであって、正しい教えはこういうものですよ、という意味で告白しなければなりせんでした。
グノーシス主義は、霊は善いものであり、物質(肉体)は悪であると考えていましたので、きよい霊である神が人となったということを否定しました。そうして、一例を挙げれば、ナザレにイエスという大工さんがいたけれど、その人がヨルダン川で洗礼を受けたときキリスト霊がとりついたのだというのです。そうして、苦しみは悪であると考えるので、キリスト霊が十字架にかかられて苦しんだということはありえないので、十字架にかかる寸前、イエスにとりついていたキリスト霊は離れたのだというのです。このようなグノーシス主義の間違った教えに対して、使徒信条は「主は聖霊によりて宿り処女マリヤより生まれ」と受肉の事実を述べます。また、使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、死にて葬られ」とキリストの受難を強調しています。
 このようなわけで、信仰告白は主にある教会を同じことを信じている者として結び合わせる絆です。かつ、それを信じない人々と区別するものです。

宗教改革の時代
 信仰告白文が多く誕生したもう一つの時代は、宗教改革とその後の時代、つまり16,17世紀です。中世という時代に聖書から離れてしまったローマ教会に対して、聖書的な真理に立ち返るにあたってローマ教会と区別して、私たちはこのように信じるということを明確にする必要が生じました。
特に、ローマ教会の、人が救われるには神と人間が協力しあうという考え「神人協力説」に対して、プロテスタント教会は、救いは神の百パーセント恵みによるという聖書の教えに立ち返りました。アウグスブルク信条、フランス信条、第一、第二スイス信条、ジュネーブ教会信仰問答、ハイデルベルク信仰告白ウェストミンスター信仰基準などが宗教改革時代とその後の成果です。
こうした歴史を見ればわかるように、「信仰告白」というものは、他の宗教や異端や同じキリスト教でも他教派と区別して、聖書に基づいて三位一体を二性一人格を宣言し、あるいは、ローマカトリック教会と区別して聖書に基づいて信仰義認を宣言するのです。信仰告白は、教会を結ぶとともに異端やローマ教会と区別をするという働きがあります。



2 心の中にあることと同じことを言う

 キリスト教信仰は告白的信仰です。1つは、主にある兄弟姉妹と、信じていることがらについて同じことを言うという意味でした。もう1つは、心の中にあるのと同じことを言うという意味です。「告白する」ということばは、中学生なんかが「こくる」などと言っています。「彼女に愛を告白する」とかいう意味で使うでしょう。これは、心の中にある「ぼくは彼女が好きだ」という思いを、そのまま口で言い表すということでしょう。「心の中にあるのと同じことを口で言い表す」という意味でもあるのです。口ではあのように言ったけれども、実は心の中では別のことを考えていたのですというのは、告白でなく嘘です。ローマ書10章10節に

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

とあるのは、そういう意味です。心の中で「イエス様は私の主です」と思っているけれども、口では「私はイエス様など信じていません」というようなことは神様の前では通用いたしません。というのは、「イエス様は主です」ということは、イエス様はあなたの心の中だけの主ではなく、全人生・全生活における主であることを意味しているからです。
エス様はおっしゃいました。

 「そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。 12:9 しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:8,9)

 キリスト信仰とは告白的信仰なのです。私たちは心の中でこっそりとイエス様を信じていますというのではなく、その信仰を口に表し、そして、生き方に表していく、それが真実な信仰なのです。心にイエス様を信じ、口でイエス様を言い表し、日々の生活でイエス様をあかししていく。そういうおたがいでありたいものです。
 私たちは恵みだけで神様の前に救われました。ということは、私たち自身のうちには私たちが救われるための根拠は何もなく、ただイエス・キリスト様のみが私たちが救われる根拠であるということです。つまり、イエス様から離れて、私たちの救いはないということです。だから、私たちはこの「イエス様こそ主です」という信仰の告白にいのちをかけるのです。


結び
 キリスト教信仰とは告白的信仰です。告白とは、「同じことを言う」ということです。
 主にある兄弟姉妹たちとともに、神様について、御子イエス様について、聖霊様について同じ信じていることを表すこと。教会とは、信仰告白によって結ばれた共同体なのです。
 また、心の中でイエス様はわたしの主ですと思っていることを、口で「イエス様は主です」と表すこと。そして、ひとりひとりの生活で、そして教会としての生き方をもって、「イエス様は私たちの主です」という告白をして生きて行きたいと思います。