苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

王子の婚宴

マタイ22:1−14
 受難週


1 招待客が来ない・・・ユダヤ

 エルサレム神殿のなかでイエス様に抗議をする祭司長・長老・律法学者たちにイエス様はたとえを続けて行かれます。やはり、神の救いのご計画についてのたとえです。

22:1 イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。
22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。

 王とは父なる神様のことを意味しており、王子は御子イエスさまを意味しています。王は王子の結婚披露宴をもようしました。聖書ではしばしば、御国が完成するときのことを結婚にたとえます。

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。(黙示録21:2)

 いや、実は逆で、結婚という制度が影で、キリストが花嫁のように飾られた教会を迎えに来られることが本体です。結婚は御国を予め指差す予型です。
 父なる神は、多くの預言者たち、最後には御子を遣わして、まずイスラエルの国で招きをなさいました。主イエスは「天の御国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」とガリラヤのナザレからスタートして、弟子たちとともに、この三年間イスラエル全体の人々を招待してきたのです。
ある人々は天の御国への招きにまったく無関心でした。「畑仕事が忙しいんだ、商売が忙しいのだ、天国のことなんかかまっていられるものか」というのです。道端に落ちた種をからすが食べてしまったように、尊い御国の福音のことばは悪魔に持ち去られました。またイエス様のもとに集まってきた人々の多くは、イエス様による病の癒しを期待してのことでした。けれども、その人々は土の薄い岩地に落ちた種がすぐに芽を出すけれども、日が高くなると根が浅いので枯れてしまうように、そのほとんどはそれだけが目当てであって、癒しをいただいたら喜んで、さっさと主のもとを去ってしまいました。
 さらに、預言者たち、そして主イエスと弟子たちが御国のしらせを宣べ伝えてゆくと、特に祭司長・長老たちそして権力者たちは、迫害し、殺しさえしました。これが3節から6節の意味するところです。

 22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。 22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。

 神様は、イスラエルの国が祭司の王国、聖なる国民としての証し人としての役割を果たさないので、ついに、ローマ帝国の軍隊によってこの国は滅ぼされてしまいました。紀元70年のことです。これが7節の意味することです。

22:7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。

2 世界宣教

 選びの民であるイスラエルが、その選びに値しなかったので、神様はイスラエルの民に託していた御国(神の国)への招きを、異邦人たちに拡大なさいます。世界宣教の始まりであり、聖なる公同の教会の始まりです。

22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。 22:9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』

 これはマタイ福音書末尾で、主イエスが弟子たちに言われた世界宣教命令のことです。

 28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・」

 主のご命令にしたがって、弟子たちは世界中に福音を宣べ伝えて、神の国へと招いてきたのです。その働きは、現代まで続いていて、私も主の弟子の端くれとして、この南佐久郡に遣わされてきて、この地のみなさんをキリストの福音をもって招く働きをこの21年間してまいりました。通信小海にしても、家庭集会にしても、特別集会にしても、その一番大事なことは、キリストの十字架と復活の福音で呼びかけることです。主イエスの羊は、主イエスの声を知っているので、その御声で呼ぶと出てくる者なのです。
 そのように二千年間にわたって世界中で福音を宣伝した結果、聖なる公同の教会が形成されてきて、天国は神の民で一杯になりつつあります。

22:10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 他の再臨の前兆のことも考え合わせてみれば、もうそろそろ天の御使いのラッパが高らかに響き渡って、主が栄光の雲とともに来られて主を信じる聖徒たちは天に引き上げられます。他の主の再臨の前兆とは、

① 偽預言者・偽キリストが出現すること。
② 戦争や戦争の噂、民族紛争が多発すること。
地震などの天変地異が世界各地で頻発すること。
④ 疫病がはやること。
⑤ 迫害のなかで福音があらゆる民族国語に宣べ伝えられることです。

 21世紀になりキリストの福音が歴史上はじめて、あらゆる民族国語へと伝えられるという約束が成就されようとしています。今まさに、宴会場はいっぱいになりつつあります。主は近く、聖徒たちが天に引き上げられる日は近いのです。


3 キリストの義の衣

 たとえ話は続きます。当時、王様やお金持ちが人々を婚礼パーティに招くときには、その宴会場の入り口で王様が用意しておいた礼服に着替えて、そうして披露宴に出席することになっていました。(そういえば、「ノダメカンタービレ」のなかで、ノダメが南フランスあたりの大金持ちの屋敷でパーティに招かれたとき、それに出席するための衣装を提供された場面がありました。)だからかきあつめられた貧しい人々であっても、玄関でボロを立派な礼服に着替えて、披露宴に安心して出席することが出来ました。
 ところが、ひねくれ者がおりました。彼は王様がせっかく用意した立派な礼服を差し出されても、「そんな王様が用意した礼服など要りません。俺は自分の用意して来たこの服で大丈夫です。これで、披露宴に出席します。」とあくまでも言い張って、出席したというのです。しばらくすると王様が披露宴にやって来ます。すると、そこに一人ぼろぼろの服をまとった男がいるではありませんか。たいへん失礼なことですし、王の好意を踏みにじる人です。王は、この男を縛り上げて宴会場から暗闇に追い出してしまいます。

22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。

 たとえばなしの中の、この出来事は何を意味しているのでしょうか。王が、客のために用意した婚礼用の礼服とは、キリストの義の衣を意味しています。私たちは生まれながら、聖なる神の眼から見たならば罪に汚れた者です。例外はありません。主イエスはおっしゃいました。
「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:20−23)
 上辺ではなく、心の中まですべて見ていらっしゃる神様の目からすれば、私たちは同考えても罪に汚れた者なのです。人は、他の人々と比べて「おれはあいつほど悪い人間ではない。良い人間だ。」と言います。こういうのを肥溜めの蛆虫的思考といいます。蛆虫は周りが汚れているから、自分はたいしたことないと自己満足するのですが、客観的に見ればとんでもなく汚れているのです。神様の目から見たらとんでもない罪人なのに、人と比べてみたところで、五十歩百歩です。目くそ鼻くそです。
 それなのに、「自分は正しい。自分は正しいから、イエス様の十字架による罪のあがないは必要ありません。私なりにイエス様を模範として生きてきた立派な人生をみてください。」という人がいるとしたら、その人は神の御国から追い出されてしまいます。私たち人間の義は、聖なる神の前では襤褸雑巾のようなものにすぎないのです。だからこそ、神様は御子をこの世に遣わしてくださいました。主イエスはあの十字架の上で苦しみ死んで、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして復活して聖霊を私たちひとりひとりに与えて、私たちがキリストのいのちに生きる者としてくださいました。これが、キリストの義の衣です。
 私たちは自分の義を誇るのではなく、ただキリストが十字架の死を復活によって勝ち取ってくださった義を、神様の法廷の前で誇ることができます。私たちは罪ある者ですが、キリストの義の衣を着ているならば、神様は私たちを義と認め宣言してくださるのです。私たちはこのキリストの義の衣を、悔い改めと信仰によって受け取ることができます。
 聖なる神様の前に自分には罪がある事実を認めること。そして神に背を向けた人生を方向転換して、神様のほうに向き直るのです。そして、イエス様が私の罪のために十字架にかかってよみがえってくださったという事実を信仰によって受け取るのです。


結び 
 たとえ話の最後に、イエス様はおっしゃいました。

22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 せっかく神の御子が救い主としておいでくださり招いたのに、ある人たちは、仕事が忙しいから、ある人は商売が忙しいから、といってイエス様のところに来ませんでした。また、ある人はイエス様を拒否して迫害しました。この人々は、主の招きにもかかわらず、自らを永遠の滅びに定めてしまったのです。・・・これはしかし、ユダヤ人たちのことではありません。私たち自身が、自分の生活のなかで、主の招きを尊び続けるようにと求められているのです。この世の欲、この世の価値観、サタンは私たちをしばしばこれらを用いて誘惑します。主の尊い召しをないがしろにして、永遠の滅びに陥らないように、しっかりと主にしたがってまいりましょう。
 また、せっかく神の御子イエス様が十字架でいのちを捨ててあなたの罪をあがなったとおっしゃるのに、自分は正しい。キリストの十字架など私は必要ないといって、自ら滅びを選び取ることがないように。私たちは神様の前に模範的な生活をしているから、その功績で救われたわけではありません。私たちが、神の前に誇ることができるのはなんでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架です。私は罪ある者ですが、主イエスが私のために十字架にかかって私を義としてくださいました。この事実のゆえにこそ、私たちは聖なる審判者である神の前に出ることができます。
 主イエスの再臨が近づいています。いつ主が来られて聖徒が天に上げられる日が来てもおかしくは無い時代の日々を私たちは生かされています。主に対する信仰をたしかなものとし、かつ、この福音をあかしして生きてまいりましょう。