苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月22日  主の道を

イザヤ2:3
多くの民が来て言う。
「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。
主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
私たちはその小道を歩もう。」
それは、シオンからみおしえが出、
エルサレムから【主】のことばが出るからだ。(新改訳)


多くの民は来て言う、
「さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家へ行こう。
彼はその道をわれわれに教えられる、
われわれはその道に歩もう」と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。(口語訳)


おほくの民ゆきて相語いはん 率われらヱホバの山にのぼりヤコブの神の家にゆかん 神われらにその道ををしへ給はん われらその路をあゆむべしと そは律法はシオンよりいでヱホバの言はヱルサレムより出べければなり(文語訳)


「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」(新共同訳)

 訳語として気になるのは、新改訳では主が教えてくださる「道」と、私たちが歩む「その小道」が区別されていること。文語訳では「道」と「路」と字を変えている。ヘブル語では、前者はデレフ、後者はオーラで別語である。単にパラレリズムと読むべきなのか、そうでないのか?
 もうひとつは、これらの「みち」がどちらも複数形であるというのが私にとっては意外なことだった。主が複数の道を教え、私たちはその複数の道を歩む。おお、これは意外。選択の余地があるということなのだろうか。いや、そうではない気がする。

 主の道を知るために、聖徒たちは、主の山、ヤコブの家に登ってくる。主の山とはエルサレム神殿のあるシオンを意味する。新約でいえば、主の山とは教会、教会の霊とまことによってささげられる公同礼拝の場を意味する。

 本日は主の日、このつたない器にも主の御霊が臨んでくださり、兄弟姉妹に対して主の道を示すことができますように。

<同日追記
 「道」が複数なのは、多くの民に対して、主がそれぞれにふさわしい道を示してくださるという意味であると解するのが正解であろうと思う。ひとりの説教者が、みことばを解き明かすとき、それを聞く兄弟姉妹たちが御霊によって、それぞれの人生における道にかんする悟りが与えられるということではなかろうか。
<同日追記
詩篇25:4は主に対する個人的な祈りのなかだから、「道」は単数であろうにと思うのに、なんと複数。
New International Version
Show me your ways, LORD, teach me your paths.
自分が歩いてゆくならば、二本も三本も道があっても、結局ひとつ選ぶほかないではないか。へんだなあ?