苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

七十年目の今

ゼカリヤ書7章1−10節


 今年は戦後70年目。そこで「70年」を聖書に探してみましたら、バビロンによるエルサレム神殿崩壊からその再建までが70年とありました。70年はエレミヤの預言にあったことです。

「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。」(エレミヤ25:11)


1 使者の質問(7:1−3)

 エルサレム神殿崩壊から70年。今やエレミヤの預言が成就して、神殿再建工事が完成に近づきつつありました。そもそも、なぜイスラエルの民はバビロン捕囚という憂き目にあわねばならなかったのでしょうか?かつてシナイ山モーセに対して主は次のように語られました。

「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:15,16)

 そして、イスラエルの民が「主の宝、祭司の王国、聖なる国民」として歩むために、十戒をはじめとするシナイ契約の律法が与えられました。・・・しかし、やがてカナンの地に定着して王国を築いたイスラエルは、神の契約と律法をないがしろにして、「主の宝、祭司の王国、聖なる国民」にふさわしくない歩みをするようになってゆきます。イスラエルの罪は二つありました。
 第一は、偶像礼拝。神殿礼拝は盛んでしたが、そこでは、偶像の神々を万軍の主なる神と並べて礼拝をしたのです。十戒の第一戒違反です。
 第二に、王国時代の社会は、やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげ、彼らの訴えが取り上げられない公義の行われない社会、格差社会としてしまったことです。

9節。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

とあるとおりです。かつて預言者イザヤは言いました。

「おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。
みなしごのために正しいさばきをせず、
やもめの訴えも彼らは取り上げない。」イザヤ1:23

 もともと神はイスラエルに50年ごとに地境をもとに戻し、奴隷を解放するというヨベルの年の定めを与えて、その社会が一握りの富者と大多数の貧者という極端な格差社会になることを防止していたのに、イスラエルではそれを実施しなかった結果です。神は、人間の才能や努力の程度にによって生じる貧富の差と多様性はおゆるしになるのであるが、極端な格差社会は不正義であるとして、これを忌み嫌われる。そこで、神は北イスラエルはアッシリヤによって、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼし、捕囚という懲罰をお与えになったのでした。

 しかし、定めの時が近づくと歴史を支配したまう神は、ペルシャの王の心を動かして、エルサレム神殿の再建命令を出させました。以来、民は艱難辛苦を乗り越えて、ついに今やその神殿再建工事は完成に近づきつつあったのです。 竣工間近な神殿の姿を見て、べテルの人々の心は喜びに湧き立ちます。「ああ、ついに神のわれわれに対する怒りは去った。神が下された懲罰の期間は過ぎたのだ。」と。
 70年前、彼らの祖父母の時代、都エルサレムがバビロンによって陥落させられ、彼らは亡国の民として奴隷の境遇に身を置いて来ました。以来、彼らは毎年毎年その第五の月と第七の月が来ると、神の前に嘆き悲しむ断食の儀式を行なってきたのです。 しかし、今や神の怒りは去ったと思われました。すると長年続けてきた「神の怒りは去った。嘆きの断食の儀式は、そろそろやめても良いのではないか?悲しみを表す断食はもはや無意味ではないのか?」という疑問がわいてきました。そこでベテルの人々は、主のみこころを尋ねるために、祭司たちと預言者たちのもとに使者を派遣したのです。ときは、ダリヨス王の第四年(紀元前518年)の第九の月、すなわち、キスレウの月の四日のことでした。

7:3 万軍の【主】の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねさせた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」

2 主のことば・・・誰のために?

 使者からの質問を受けて、ゼカリヤが神に祈ると、【主】のことばがありました。彼らが期待したのは「あなたたちの罪は赦され、懲罰の70年はすぎた。もはや断食をする必要はない。今は、喜ぶときだ。」ということばです。しかし、ゼカリヤのことばは、意外なことばでした。

「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。」(7:5,6)

 主のおことばは厳しいものでした。「70年間、毎年二度、あなたたちはたしかに断食の儀式を行ってきた。しかし、その断食の儀式において、あなたたちは一体誰のために断食して嘆いてきたのか?」また、「あなたがたの生活そのもの、食べるのも飲むのも自分のためではなかったのか?」
「あなたたちはモーセの時代に、祭司の王国、聖なる国民として、世界に真の神の正義と哀れみをあかしするという光栄な任務を受けたにもかかわらず、神から目をそむけ異教の神々の前にひざをかがめた。 また、わたしが定めたヨベルの年を実行せず社会に貧富の格差を生じ、貧しい者たちの訴えを取り上げず、カネと権力に勝る者たちばかりが肥え太るという不公正な格差社会を作り出した。
 もはやあなたたちは祭司の王国としての役割を果たしえなかったから、罰を受けたことを認識しているのか。あなたたちは断食において、自分たちの不遇を嘆いただけではなかったのか。己の罪を主の前にどれほど認識し嘆き、悲しんできたのか。」
・・・そのように、預言者ゼカリヤを通して、主は彼らを糾弾するのです。「先祖の愚かさ、わが身の不遇を嘆いてばかりだった君たちは悔い改めの実を結んでいるのか?」と主は厳しく追及なさるのです。主の命令に背いて、先祖の国は滅ぼされたが、「では、今、あなたたちはどうなのか?」と預言者は問うのです。「真の神に並べて、偶像の神々を拝んできた君たちの先祖に対して、主はさばきをもたらされたが、では、今、君たちは、先祖を同じ罪を犯してはいないのか? 先祖は孤児、やもめ、在留異国人、貧しい人々を虐げる不公正な社会を造って滅ぼされたが、今、あなたたちはどうなのか?」と問うのです。
 70年間の懲罰を解こうとされるときに、主はあえてもうひとたび、イスラエルの民に自分たちの先祖が捕囚の憂き目にあった理由をしっかりと認識させ、二度と再び同じ罪に陥らず、神のことばによって歩むことを求められたのでした。


適用

 今年は戦後70年目です。わが国はかつて大陸を侵略し先の戦争では実に2000万人のアジアの人々と、300万人の自国民を死に至らしめました。明治以来の国家神道政策によって、国民は日本は神国であり、アジアを指導する特権と使命を持つと思いあがっていました。その時代、教会もまたその罪に呑み込まれて同調しました。・・・そして、敗戦とともに国家神道体制は崩壊したはずでした。
 ところが、戦後70年目の今日、この国はどうなっているでしょうか。
①社会にかんしていえば、新自由主義経済政策によってますます貧富の格差が拡大し、一握りの富者と大多数の貧者という社会になりつつあります。
②平和に関していえば、教育基本法国家主義的改変、防衛省設置、国家安全保障会議設置、特定秘密保護法施行、集団的自衛権行使容認の閣議決定、武器輸出自由化とことを進めて、そして今国会では、周辺事態法、緊急事態基本法を改変して、世界のどの地域でも武力行使することまでも合法化し、仕上げとして目指しているのは9条改変です。
③宗教政策に関して言えば、現内閣の19人中15名は神道政治連盟のメンバーであり、自民憲法改正草案を見れば、国民儀礼を社会儀礼を言い換えて国家神道体制復興をもくろんでいます。・・・いったい、この70年間、この国は何を学んできたのでしょうか。

 しかし、むしろ、主はまず「神の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」である私たち教会にこそ目を向けておっしゃるのでしょう。「この70間、君たちは、誰のために断食をしてきたのか?誰のために宣教をし、誰のために礼拝をし、誰のために生きてきたのか、自分のためではなかったのか」と。「どれだけ、祭司としてこの国のために祈ってきたのか?預言者として、主からの警告を発してきたのか?王として地にみこころが成るために行動してきたのか。」と。
この70年目にあたり、私たちは目を覚まして、自己満足でなく、真の神の御名があがめられるためにこそ、この偶像に満ちた国民に宣教をしたいと思います。また、この社会の中に神の公義とあわれみが実現するために、祈り、語り、行動したいと願います。

「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」

(2015年 第66回 教団総会閉会礼拝  晴海)