苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

宮清め

マタイ21:12−19


1. 宮清め

21:12 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
21:14 また、宮の中で、盲人や足のなえた人たちがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。


 ロバの子の背に揺られてエルサレムに入城されて、主イエスは最初にどこに向かわれたでしょう。王の宮殿でなく、また市民の市場でもなく、神の都の中心である神殿でした。イエス様がかつて12歳のとき、初めてエルサレムに家族と一緒に上ったとき、ヨセフとマリヤやイエス様を見失ったことがありました。さんざん探し回ったあとに、神殿でイエス様を見つけたら、イエス様が「どうして私をお探しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存知なかったのですか。」とおっしゃいました。ここはイエス様のお父さんの家なのです。神殿はエルサレムのハートであり、イスラエルの国のハートです。どのような礼拝をし、どのような教えがなされているのか、ということがイスラエルの神の前のあり方を決めているのです。礼拝が神の民の生活の中心であり、運命を決めます。
 ところで、イエス様がエルサレムに入城なさったときは、過ぎ越しの祭りが近づいている時でしたから、非常の多くの人々が都に集まっているときでした。ユダヤ教の会堂は当時、ローマ帝国全体に点在していて、エルサレム神殿で大きな祭りが行われるときには巡礼が集まってきていたからです。神殿その建物はヘロデ大王が建てたもので、非常に豪壮なものでした。主イエスの弟子たちもその見事な石に目を丸くしたと福音書に記されています。サドカイ派からなる祭司たちは、この神殿経営に世間的に言えば成功を収めており、祭りのときにはエルサレムの城壁の中に巡礼たちが入りきれないので、城壁の外に多くのテント村ができるという盛況ぶりであったと当時の書物のなかに記されています。
 当時のユダヤ教は異邦人伝道も盛んに行っていて、世界各地のシナゴーグにはユダヤ人だけでなく、異邦人たちも集い旧約聖書に記された創造主なる神をあがめる異邦人たちも起こされていました。そういう人々、祭りとなると、巡礼者となってエルサレムに長い旅をしてやってきていたのです。
 ところで、エルサレム神殿の中は、礼拝する場所が礼拝者によって分けられていました。至聖所に一番近い庭は祭司の庭と呼ばれて祭司たちはここで礼拝をしました。次に、イスラエルの庭と呼ばれる庭でイスラエル人男子が入ることができました。第三は女の庭で、イスラエルの女性たちはここで礼拝をささげました。そうして、至聖所から一番遠い庭は異邦人の庭と呼ばれる場所でした。はるばるやって来た異邦人たちは、この異邦人の庭でまことの神を礼拝するわけです。
 主イエスが神殿の異邦人の庭に入って行かれると、そこは喧騒に満ちていました。人々は、神殿の外側を回ると遠回りなので、近道として異邦人の庭を利用し、また、ローマの貨幣を献金用の貨幣に替える両替人や、いけにえ用の鳩を売る商人たちが、商売をしていたからです。また、神殿の外側を回ると遠回りなので、異邦人の庭を突っ切って荷物を運ぶ人々もいました。・・・異邦人がはるばる遠い国からやって来たなら、「なんだ、これが憧れのエルサレム神殿か。せっかくやってきたのに、これじゃあアポロンやゼウスの神殿の庭と何も変わらないじゃないか。」とがっかりして、神をあなどる「ゲヘナの子」になってしまうのです。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。」Mt23:15
 主イエスはお怒りになりました。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」確かに、かつての悪い王たちのいた時代のように、神殿にあからさまな偶像が立ち並んでいたわけではありません。しかし、目に見えない偶像が聖なる宮に祭られていました。それは何でしょうか?マモニズム、経済第一主義という偶像崇拝がここでは行われていたのです。祭司階級のサドカイ人たちがこの神殿経営をして、千客万来商売繁盛というありさまで、彼らは両替人や鳩売り人から上前をはねていたのでした。また、異邦人の庭があんなありさまだったのは、祭司たちが心には「どうせ選民でない異邦人たち礼拝の場なのだから、少々うるさくっても構うまい。」と思っていたからです。神と並べてマモンをあがめるというそういう罪を彼らは犯していたのです。それは、両替といけにえ用のはとの販売だけのことではなく、それに象徴される神と富とに仕えようとする彼らの宗教のありかたを非難なさったのです。

2.祭司長・律法学者

21:15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。 21:16 そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 祭司、律法学者たちは、エルサレムにロバの子に乗って入城した主イエスのことを怒りました。神殿内、特に異邦人の庭で、両替商、鳩などいけにえ用の動物を売る人々に、商売をしていいという許可を出していたのは祭司たちです。それを、「神殿を強盗の巣にしている!」と非難されては面目丸つぶれです。
 しかし、彼らはあからさまに「なぜ、異邦人の庭で両替商やいけにえ商に許可を出してはいけないのですか?」と、イエス様に抗議はしませんでした。なぜかといえば、彼らだって、それが神の前では良くないことであるということは、わかっていたからでしょう。わかった上で、許可を与えていたからでしょう。わかっていたけれど、神殿経営のためには、まあいいかという妥協をして、異邦人たちの礼拝の場を汚していたのです。このことを取り上げれば、さらに群衆の前で主イエスに論破されて恥をかかされてしまうでしょう。それを恐れて、別件で訴えたのでした。子どもたちがイエスのことをたたえて「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるではないか。」というのです。
 「『ダビデの子にホサナ』というのは、メシヤが到来したときに、人々が挙げるべき称えのことばではないか。お前は、まさか自分は来るべきメシヤだというほど厚かましくはないだろうな。」と彼らは非難したのです。彼らはイエスがキリストであることを、あくまで否定したいのです。
 しかし、主イエス詩篇第8編を引用して、応じます。
「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」
つまり、今やイエス様は隠すことなくご自分が来るべき讃美されるべき、メシヤどころか神の御子だと表明なさったわけです。もうこれまでのガリラヤでの3年間のように、ご自分が神の御子、キリストであることを隠している時ではありません。主イエスは、ご自分が神の御子、キリストであるということを宣言する時、そして贖いを成し遂げるべき時が来たのです。
 祭司、律法学者たちは憤然として去ってゆきました。主イエスの弟子たちは、イエス様があまりにも大胆なので、これでは主イエスは敵に殺されてしまうのではないかと、恐れを感じていました。


3.いちじくの木を枯らす

 主イエスはこのようにして「宮清め」を行なってから、エルサレム城の門を出て、ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの家に泊まります。そして。翌朝、再び都へと向かわれるのですが、道ばたにいちじくの木が見えました。これは福音書のなかで主イエスがなさったもろもろの奇跡の中で唯一ののろいの奇跡です。

21:17 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。
21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。21:19 道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。

 今日は、このあとに続く祈りについての教えは措くとして、このいちじくののろいの奇跡が何を意味していたかを説明しましょう。イスラエルの国を象徴する植物は、オリーブ、ぶどう、そしていちじくです。このいちじくの木は、イスラエルを象徴するものでした。ところが、このいちじくの木は葉ばかり茂っていて、一つも主イエスに実を提供しようとはしませんでした。それは、主イエスが訪れた神殿のありさまを象徴するようでした。確かに当時のエルサレム神殿を中心としたユダヤ教は栄えていました。エルサレム神殿の建物は、ヘロデ大王が設計し巨石や美しい岩をもちいた贅沢なものでした。また、祭司たちの神殿経営で人々はにぎわい財政も潤っていました。三大祭りの時には世界中から巡礼が訪れて「満員御礼」状態でした。
 しかし、主イエスエルサレムの神殿礼拝、その宗教のありかたが葉ばかり茂っているいちじくの木であることを見抜いておられました。その証拠に、はるばる神殿を訪れた異邦人たちが礼拝する場所を強盗の巣としていたのでした。確かにそこは豪壮な神殿でしたが、礼拝の場ではありませんでした。そうして、神の前の誠実や、憐れみを教えることをおざなりにしていたのでした。預言者ミカのことば。

6:6 私は何をもって【主】の前に進み行き、
  いと高き神の前にひれ伏そうか。
  全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって
  御前に進み行くべきだろうか。
6:7 【主】は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。
  私の犯したそむきの罪のために、
  私の長子をささげるべきだろうか。
  私のたましいの罪のために、
  私に生まれた子をささげるべきだろうか。
6:8 主はあなたに告げられた。
  人よ。何が良いことなのか。
  【主】は何をあなたに求めておられるのか。
  それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
  へりくだって
  あなたの神とともに歩むことではないか。

 主イエスは、いちじくの木を呪い、枯らしてしまわれました。これは、このあと紀元後70年、エルサレムローマ帝国軍に滅ぼされてしまうことを告げる預言でした。
        

適用 新約の時代の神殿とは

 今の時代、つまり、新約の時代、神殿はどこにあるのでしょうか。主イエスがサマリヤの女におっしゃったことばを思い出してください。

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

主イエスが十字架にかかって三日目に復活し、天の父なる神の右の御座に着座されてから、聖霊を私たち神の民、教会に送ってくださいました。主イエスを信じる者に、聖霊を与えてくださいます。新約の時代、キリストを信じる者たちの礼拝共同体、そして、あなたのからだが聖霊の神殿なのです。

1コリント3:16
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」

1コリント6章19,20節
「 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

ですから、第一に、私たちの教会の歩みにおいて、神を愛し、神をあがめる礼拝が常に中心であることに心してまいりましょう。教会の目的がまことの神を礼拝することなのだということを肝に銘じましょう。教会にはさまざまな営みがありますが、その全ては誠実に神様を礼拝し、神様への応答として隣人を愛することのためにあります。
第二に、私たちのからだが聖霊の宮であるということは、私たちの生活の中心に、まことの神がおられ、このお方が崇められるべきであるということを意味しています。隅っこのほうに神様を押しのけていてはいけません。あなたのからだという神殿に主イエスが訪ねてこられるというなら、あなたは喜んで主イエスをお迎えできるでしょうか。自分のからだの中に、神を恐れない両替人やいけにえの鳩を売っている商売人はいないでしょうか。個人礼拝、日々聖書を読み祈りの時を大切にしましょう。神様を侮り、この世の欲、俗悪な趣味などが占めてはならない位置を占めていないか、主イエスは悲しまれないか。・・・もし示されるところがあれば、心を頑なにしないで素直に悔い改めて、礼拝の生活を立て直しましょう。