苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン3月5日  あわれみということば

詩篇119:77
私にあなたのあわれみを臨ませ、
私を生かしてください。
あなたのみおしえが私の喜びだからです。(新改訳)


あなたのあわれみをわたしに臨ませ、
わたしを生かしてください。
あなたのおきてはわが喜びだからです。(口語訳)


なんぢの憐憫をわれに臨ませたまへ
さらばわれ生ん
なんぢの法はわが樂しめるところなり (文語訳)


御憐れみがわたしに届き、
命を得させてくださいますように。
あなたの律法はわたしの楽しみです。(新共同訳)

 詩篇119篇はいろは歌詩篇で、77節はヨッド。あわれみ、憐憫と訳されることばがレヘムということばの複数形で、権威辞書BDBを見るともともと「子宮」という意味だそうであるから興味深い。なんでそういうことになるのか。かってにイメージを膨らませてしまうのだが、辞書は人間に使われるばあいは、同じ母の胎から生まれた者としての感情というのだが、どうかなあ(と分不相応にBDBに逆らってみる)。
 むしろ私は母がわが子を育む、その愛を意味するようにイメージ。あるいは母の陣痛によって子がいのちを得るように、神の深く激しい痛みをともなう憐れみによって、人は生きるのか。神には、父性とともに母性もあると感じさせることば。・・・とは権威あるBDBには書いていませんが。
 「みおしえ」「おきて」「法」「律法」と訳されるのはトーラー。つまり律法。律法は本来、人を苦しめる桎梏ではなく、楽しみであり、喜びなのである。主の愛に答えて主に従う道なのだから、それはかりに苦しくても喜びなのだ。

エスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12:2)