苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2月24日     福音の曙光

エゼキエル20章44節
わたしが、あなたがたの悪い行いや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが【主】であることを知ろう。──神である主の御告げ──
(新改訳)


イスラエルの家よ、わたしがあなたがたの悪しきおこないによらず、またその腐れたわざによらず、わたしの名のために、あなたがたを扱う時、あなたがたはわたしが主であることを知るのであると、主なる神は言われる(口語訳)


イスラエルの家よ我汝らの惡き途によらず汝らの邪なる作爲によらずして吾名のために汝等を待はん時に汝らは我のヱホバなるを知るにいたらん主ヱホバこれを言ふなり(文語訳)


お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。(新共同訳)

 文脈。20章は神の目から、それまでのイスラエルの歴史が概括される。主は安息日と律法によってイスラエルを他の民から聖別したが、イスラエル安息日を汚し偶像によって身を汚した。それゆえ、補囚の憂き目にあった。しかし、彼らの堕落にもかかわらず、主は、彼らの先祖アブラハムに誓った誓いのゆえに、主ご自身の御名のゆえに、彼らに恵みを表されようとしている。そのとき、イスラエルは主を知ることになるという。
 主の名の真実を表すのに二つの道がある。ひとつは戒めにそむく者には罰を報い、従う者には祝福を報いることにより、主の公正な裁きにおける真実をあらわす道。 だが、もうひとつの道がある。それは、主が選び契約を与えた民をどこまでも見捨てないという主のご真実を表す道である。
 もっともこの道はエゼキエル書で突然表されたわけではない。すでに出エジプト記32章、金の子牛事件のとき、モーセが懸命にイスラエルをとりなす場面において示されている。イスラエルが偶像を作ったとき、神が彼らを荒野で滅ぼすと言われた。その時、神がイスラエルをお選びになりエジプトから導きだされながら、彼らを荒野で滅ぼすならば、周りの国々は主をあざけることでしょう。主の名のために、ここは思いとどまって彼らを寛容に扱ってくださいとモーセはとりなした。主の選び・契約の真実のゆえに、彼らを忍耐してください、と。
 だが、その場合、神のさばきにおける正義はどうなるのか・・・。ここにキリストの十字架の福音の曙光が見えてくる。

「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」ローマ3:25,26