苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2015年2月18日  だれが、その日を

ゼカリヤ4:10
だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。(新改訳)

だれでも小さい事の日をいやしめた者は、ゼルバベルの手に、下げ振りのあるのを見て、喜ぶ。(口語訳)

誰か小き事の日を藐視むる者ぞ夫の七の者は遍く全地に往來するヱホバの目なり準繩のゼルバベルの手にあるを見て喜ばん(文語訳)

誰が初めのささやかな日をさげすむのか。選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。・・・(新共同訳)

 難解な幻。物の本によれば、捕囚を解かれた神の民が神殿再建をすることに関する幻。七つの燭台は神の民の共同体を表し、両脇に立つ二本のオリーブは大祭司ヨシュアとゼルバベルを表す。
 あまりの困難を前に、神殿再建など夢のまた夢とさげすんだ人々が、その完成の日には喜ぶという。他の訳が「下げ振り」と訳すのを新共同訳は「選び抜かれた石」と訳す。新改訳第二版では「より分けられた石」とあったのが、第三版では「下げ振り」と改められた。「下げ振り」は建設の初めに垂直を出す糸の先に錘のついた道具であるから、竣工時には無用のはず。むしろ、選び抜かれた石、仕上げの石のほうが筋がとおるだろう。
 人の目には決して成し遂げられないと映っても、主のみことばが約束することは、権力によらず能力によらず主の霊によって必ず成就する。小さな伝道者にすぎない私も、たしかに、そういう経験をいくつかしてきたことを思い出した。今、目の前の困難に失望してうずくまるのでなく、立ち上がり、主を仰いで、みことばと御霊の力によって、進みたい。