苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2月16日   主の群れを

エゼキエル34:12
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。(新改訳)


牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。(口語訳)


牧者がその散たる羊の中にある日にその群を守るごとく我わが群を守り之がその雲深き暗き日に散たる諸の處よりこれを救ひとるべし (文語訳)


牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。(新共同訳)

 エゼキエルはユダ王国末期の預言者。このことばの背景には、神の怒りの鉄槌であるバビロンによって滅ぼされんとしているユダ王国の、政治的・宗教的事情がある。民の牧者たち、祭司・長老階級が、その宗教的政治的特権に胡坐をかいて私腹を肥やし、民を神の道に正しく導くことも助けることもしていなかった。先立つ箇所に、次のようにある。

「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。」(34:2−6)

 そこで、主なる神ご自身が牧者となって、弱り果てている民を助け養おうという慰めが本日の箇所。
 読んでいて、福音書の一節を思い起こした。「主イエスは・・・そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
」(マルコ6:34)エゼキエルの時代も、主イエスの時代も、エルサレム神殿の祭儀はすこぶる盛んに行われ、祭司・律法学者たち宗教的指導者たちは社会的に敬われていたが、しかし、主の目からごらんになると、民は「羊飼いのいない羊」のようであったというのだから皮肉である。そこで、主ご自身が羊飼いとなられた。
 だが、この警告は大昔のことではなく、牧師である私自身に厳しくせまってくることばである。おまえは御言葉の糧をもって十分に主の民を養っているのか?病気の兄弟、寂しくしている老いた姉妹、迷い出ている兄弟姉妹。お前は主からたまわった羊飼いの役目をちゃんと果たしているのか?と。