苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

仕える指導者

 エルサレムが近づいて、主イエスは受難について三度目の予告をなさった。すると、ヤコブヨハネの母親が息子たちを連れて来て、イエス様が王座に着いた暁には、息子たちを右大臣・左大臣に取り立ててやってください、と願いにやってきた。主イエスは、「君たちはわたしの十字架の受難についてわかっていない。だが、後の日には悟って君たちも殉教することになる。」と予告なさる。
 そして、主イエスは弟子たちみなに、神の国の指導者についてたいせつなことを教えられた。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。」(マタイ20:25−27)

 注意すべき第一点は、主イエスは「人の先に立ちたい」という願いを否定なさらなかったことである。「神の国」においても、権威ある指導者は必要である。権威がなければ、社会も学校も家庭も乱れてしまう。国では立法司法行政の長たちが国民に対して、教室では先生が生徒に対して、家庭には子どもに対して父母、妻に対して夫が、権威として立てられている。指導者はそれぞれの場で必要である。教会においても指導者は必要である。「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」(1テモテ3:1)。
 注意すべき第二点。それは神の国の指導者の、この世の指導者たちとの違いである。それは、神の国の指導者は「サーバントリーダー」つまり「仕える心をもった指導者」でなければならないということである。従ってくる人々の立場に立ってものを考えながら導けることが、指導者にとってたいせつなことである。家庭でも、職場でも、学校でも、そして教会でも、それぞれの場で責任ある立場にあれば仕える心をもって生きたい。
  「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」という。私たちは万物の創造主の子という重い光栄にあずかっている者だからこそ御子の受肉と受難を模範としてへりくだって互いに仕える者となりたい。

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)