苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神を愛するための神学講座Ⅱ 創造論加筆

●創造は完成ではなく、完成を目指すものだった
 神の計画において、創造は「非常によかった」とはいえ、完成ではなかった。完成を目指して造られた限りにおいて、良かったのである。三つほど根拠を挙げておく。第一に、最初の土から造られたアダムは、そのままでは神の国を相続できず、のちに来る「御霊のからだ」となって初めて、御国を相続できるとされている。

「15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。 15:48 土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。 15:49 私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。  15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(1コリント15:47−50)


 第二に、創世記2章のエデンの園の描写と黙示録22章の描写を比較すれば、終末の御国は単なる堕落前への回復ではないことが明らかである。たとえば、「いのちの木」はエデンの園では1本だったが、完成の御国では並木をなしている。つまり、完成した御国における「いのち」すなわち、神との交わりは、創造のとき(堕落前)よりもはるかに豊かであるのである。
 第三に、完成した御国には、善悪の知識の木が存在しない。この事実は、自由意志の状態のちがいを意味している。すなわち、創造の状態において人は「罪を犯しうる罪なき状態」だったが、堕落後、「罪を犯さないではいられない罪ある状態に陥った」。完成の御国においては「罪を犯すことができない罪なき状態」となる。キリストがもたらす救いとは、完成の御国である。
 したがって、救いとは堕落した状態から創造の状態に回復されることではなく、それ以上のことを意味している。