苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの愛の愚かさにしたがって:後藤健二さん


http://ameblo.jp/pastorswife/entry-11985874886.html

 上記リンク先の、金沢市の牧師夫人のブログの文章に深く教えられました。私なりにまとめてみますと、下記のとおり。
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 後藤健二さんの行動について「非常識だ」という非難をする人々がいます。たしかに、それは常識的でもっともな意見です。妻子を捨てる覚悟で、危険な地に入って行き、しかも今回は後藤さんの価値観と反対の生き方をしている人を救うために入って行かれたというのは、常人の理解を超えています。けれども、愛と使命に生きるということには、そういう「非常識」と映ることがともなう場合があります。
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 以上、私なりの趣旨説明ですが、ぜひ上のリンク先の文章を読んでください。それを前提として、考えたことを下に書きます。


 キルケゴールが、人間の実存について、美的段階、倫理的段階、宗教的段階があると書いていますが、デヴィ夫人とその支持者たちのいう常識は倫理的段階でしょう。倫理的段階の人々の目には、後藤さんの行為は「愚か」で「非常識」としか映らないでしょう。それは、後藤さんの愛と使命感から出た行動は、宗教的段階に属していることであるからです。
 キリストに従って生きることには、ときには世間には理解されない愚かさが伴っているものです。キリスト者とは、神でありながら、滅ぶべき人間を救うために人となって世に来られたお方にしたがう者ですから。キリストの愛は「非常識」なばかりの愛です。

 後藤健二さんは、今回のご自分の決断について、多分、罪悪感を持っていらっしゃったのではないかと私は思っています。いのちを投げ捨て、妻子を投げ捨てたことについて。以前に銃を顔に突きつけられる経験をなさったときの文章で、自分は罪悪感を覚えたと率直に語っていらっしゃいました。・・・だから、この件について胸を張って「使命のためにやりました」とか「愛のために」とかはおっしゃらないような気がするんです。
 でも、私は後藤さんとしては、ああせざるをえなかったのだろうと思います。私は後藤さんを弁護する資格も、その積もりもないし、まして同じことが出来るなどとは毛頭思いませんが、それでも「非常識だ」と言ってすませられないものを感じ、敬意を覚えるのです。
 私たちキリスト者ひとりひとりにできるのは小さいことですが、(非常識がいいというのではありませんが)かりに世間の常識で言えば変なことでも、愚かにさえ見えるキリストの愛にしたがって生きる。それがキリスト者なんだと思います。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」1コリント1:18

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