苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

有神論的進化論の背景としてのカントの認識論

神を愛するための神学講座Ⅱの創造論に次の項目を加えました。

●有神的進化論の背景としてのカントの認識論
 有神的進化論者の背景には、宗教は心の世界を対象とし、科学は自然を対象とするという考え方があり、聖書は心の世界に起こることについて真理を語るけれど、自然界に起こっていることについては真理を語るわけではないとする。自然界に起こっていることは、科学者が言うことが正しいというのである。たしかに聖書学者や神学者は、自然科学の専門家ではないから、彼らの語ることに対して耳を傾ける謙虚さが必要である。だが、認識の枠組みの違いがあることを認識しておくこともまた、重要なことである。
 創世記の記述は記述として、進化論を受け入れるべきだという考え方は、カントが『純粋理性批判』で述べた認識論があるように思われる。人間の科学的認識は、感性を介して得た経験を、悟性で12の範疇に整理して得られるとする。しかるに、神・魂・自由といったことは感性によってキャッチできる経験ではないので、神・魂・自由といったことは科学的認識の対象ではないということになる。そうして、神については課題は、道徳的要請として実践理性において扱うべきだという。
 カントの第一批判は、アイザック・ニュートンの科学的認識の基礎付けをなしたとされる。
ニュートンは理神論者であった。理神論は神は世界を創造したが、その後は、世界に介入することはなく、世界はそれ自体の法則でもって自律的に運行していると主張する。自然科学者の任務は、神が世界に付与した法則を発見することである。
 だが、理神論は、先に述べたように聖書的な神観ではない。聖書によれば、神は、通常は被造物に与えた法則をもって世界を摂理なさっているが、時折、みこころにしたがって、その法則を一時的に強化したり、あるいは法則を一時的に停止したりして、特別摂理つまり奇跡を起こされる。主イエスは、神が終わりの日に起こされる復活の奇跡を否定するサドカイ人たちにおっしゃったように、カントやニュートンにもおっしゃるだろう。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」(マタイ22:29)
 もっとも、聖書にによれば、神は特別摂理(奇跡)を滅多やたらと起こされたわけではなく、特定の時期に集中的に起こされたことがわかる。第一は万物の創造のとき、第二は出エジプトの時期、第三はエリヤ・エリシャという預言者が活躍した王国時代、そして第四はイエス・キリストが出現した時期とその後継者である十二使徒が活躍した時期である。もし神が気まぐれに滅多やたらに特別摂理を起こされたならば、自然科学の営みは成立しないであろうが、実際には、神は特定の啓示が必要な時期に特別摂理を行われた。有神論的世界観から言えば、自然科学者の任務とは、神の通常の摂理のために神が被造物に付与された法則を発見することである。