苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン1月26日  いと遠く、いと近き神

エレミヤ10:7
諸国の民の王よ。
だれかあなたを恐れない者がありましょうか。
それは、あなたに対して当然なことです。
諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、
そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。(新改訳)


万国の王であるあなたを、
恐れない者がありましょうか。
あなたを恐れるのは当然のことであります。
万国のすべての知恵ある者のうちにも、
その国々のうちにも、
あなたに並びうる者はありません。(口語訳)


汝萬國の王たる者よ誰か汝を畏れざるべきや汝を畏るるは當然なりそは萬國のすべての博士たちのうちにもその諸國のうちにも汝に比ふべき者なければなり (文語訳)


諸国民の王なる主よ、あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でもあなたに並ぶものはありません。(新共同訳)

<感想>
1.表現上の特徴としては、最初の「諸国の民の王」という表現。呼びかけに取るか、そうでなく取るかは、まあよしとして、預言者は「イスラエルの民の王」でなく「諸国の民の王」として主に呼びかけている。そういえば、エレミヤ書は第一章から、諸国の王と立てたり廃したりするのは主であると語っていた(1:10)。エレミヤの時代、国際的な関係が密接になったから・・・と思ったが、そうではない。もともとアブラハム契約(創世記12章、17章)にも、主は諸国の王であるという思想は現れている。
 まして、全世界に福音の広がった今日において、視野を広くして世界の国々の人々のために祈るべきだと思わされた。

2.「諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいない」のは言うまでもないことである。旧約聖書には他の神々と比較して、比類なきお方として、主なる神が表現される場合があるのだが、比較すること自体が失礼というか奇妙な気がする。だが「絶対者」というような抽象的表現はヘブル的ではないのだろう。
 もう一面からいえば、まことの神は、超越的であられながら、内在的でいらっしゃるお方だからである。きわめて遠くのお方であられながら、きわめて近くにいてくださるお方であられるからである。
「天にまします我らの父よ」