苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン1月23日   罪が増し加わるところに

イザヤ64:9

【主】よ。どうかひどく怒らないでください。
いつまでも、咎を覚えないでください。
どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。(新改訳)


主よ、ひどくお怒りにならぬように、
いつまでも不義をみこころにとめられぬように。
どうぞ、われわれを顧みてください。
われわれはみな、あなたの民です。(口語訳)


ヱホバよいたく怒りたまふなかれ 永くよこしまを記念したまふなかれ 願くは顧みたまへ 我儕はみななんぢの民なり (文語訳)


どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民であるわたしたちすべてに、目を留めてくださるように。(新共同訳64:8)


<感想>
 聖四文字を他の訳は呼びかけと取るのに対して、新共同訳のみが「主が」と訳しているのが特徴。


 主が天を引き裂いて降りて来られるとき、主の敵は恐怖におののくことになり、正義に歩んできた者たとは主に喜び迎えられることになるでしょう、とイザヤは言う。
 しかし、イスラエルの民の歩みを振り返ってみれば、そこには罪、不義、悪、よこしまが満ちていて、いったいイスラエルは主に迎えていただけるのだろうか、と恐れずにはいられない。人間の義は、主の御目の前ではぼろ雑巾のようなもの。もし、救いがあるとすれば、それは主がイスラエルをご自分の民として選んでくださった契約以外に根拠はありえない。・・・「罪が増し加わるところに、恵みも満ち溢れました」ということか。
 

追記
 fb友が、後半の訳文が新改訳、新共同訳はもたもたしていて、「私たちはみなあなたの民です」がズバッと言い切られていない。口語訳、文語訳のほうが、その点、迫力があると指摘なさっている。なるほど。
 ヘブル語本文を見ると、「さあ、見てください、私たちは祈っています、私たちはみなあなたの民です」となっていて、口語訳・文語訳のほうが近いように思える。むずかしいヘブル語のことはよくわからないのだが。