苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

神が結び合わせたもの

マタイ19:1-12

1 総本山に近づいて

19:1 イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。 19:2 すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをいやされた。
  19:3 パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」


 イエス様は、ガリラヤを去って、ユダヤ地方へと移動されました。いよいよ最後のエルサレム上りです。イエス様は30歳で公生涯に入られて三度上京なさっていますが、今回がその最後。主は十字架に向かう覚悟を定めていらっしゃいます。
 さて、イエス様がユダヤ地方に入ると、総本山のエルサレム神殿の足元ですから、すぐに聞きつけてパリサイ派の人々がやってきました。当時の宗教的指導者階級には、神殿を運営する祭司階級を占めるエリートのサドカイ派、手工業者層出身が多く民衆に近い立場のパリサイ派、それから世から隠れ隠遁的生活をしていたエッセネ派がいました。エッセネ派は、民衆からとおくに生活していたので聖書には登場しません。サドカイ派というのは、ローマの傀儡であるヘロデ大王が造った神殿運営をする立場であったので、政治的には親ローマ的で(今の日本でいえば真親米的エリート官僚層)、思想的にはギリシャの合理主義の影響を受けて復活もなければ天使もいないという考えの人々でした。他方、パリサイ派は庶民に近い立場で、政治的にはユダヤ国粋主義的で、思想的にはユダヤ伝統主義であり復活もあれば天使も実在するという超自然主義の考えでした。両者は水と油くらい違う考え方です。
 パリサイ派の中での律法理解にも左右幅があったようで、律法を極めて厳格・形式主義的に理解すべきだという立場と、もう少し緩やかに神への愛と隣人愛を軸にして理解すべきだという立場がありました。イエス様のもとにやってきて質問するパリサイ人たちにも、ある程度幅があることをわたしたちは見ることができます。ですが、いずれにしてもイエス様がご自分を神に等しい存在として、教え、行動していることについては、すべての指導者たちは苦々しく思っていたのです。ユダヤ地方に入ってきたとたんに待ち受けていたのはパリサイ人たちで、彼らはイエス様の教えを聴きたくてやってきたのではなく、「彼らはイエスを試みて」離婚問題について質問したのです。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスはどの程度の律法の解釈力をもっているのかテストしてやろうというのです。


2 創造の初めに立ち返って考えるべし

 イエス様は結婚に関しては、創造の初めに立ち返って考えるべきだと主張なさいます。人間が堕落してしまった後に定められた出エジプト記申命記に記された、離婚に関する細かな定めは二次的なものだからそれについてうんぬんすると本筋がわからなくなります。創世記1,2章には、神様が創造の初めにお立てになった3つの制度が書かれています。それは礼拝と結婚と労働です。

19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5 『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

<神が男女を創り、二人を結ばれた。それが結婚だ。神が結ばれたのだから、人間はこれを引き離すな。>これが一番大事なことです。その一番大事なことを見失って、軽々しくどうしたら離婚できるのかばかり論じる態度自体がまちがいなのです。離婚うんぬんは例外中の例外であって、基本は、神が結ばれたという事実です。ですから、離婚の前に結婚について学びましょう。
 5節の二重括弧の引用は創世記第二章24節のことばです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となる。」ここには結婚について大事な順序が語られています。まず「人は、その父母を離れる」ということです。つまり、結婚するために男女は精神的・経済的・物理的に自立する必要があるということです。次に、妻と結ばれる、つまり、結婚をするのです。そして、第三に、二人は共に暮らし肉体的にひとつとなることが許されるという順序です。
 ところが、現代日本には、若い男と女が付き合うといったら、すなわち肉体関係を持つことだという風潮があります。そんなことをしていると子どもが出来てしまったというので、何万という尊いいのちが闇から闇に葬られています。恐るべき罪です。幸い、産むべきだと決断ができたしたとして、生むとしたら親から精神的・経済的・物理的に自立していないままであるということに往々としてなります。そうすると家庭建設にスタートから混乱が生じることになりがちです。ですから、幸福な家庭の順序は、「父母を離れ、結び合い、そして二人は一体となる」なのです。
 もっとも、未婚の男女が恋情にかられて結ばれてしまうということと、既婚者が配偶者以外の者と性的関係をもつこととは、神様の前ではまったく質のちがうことです。律法によれば、姦淫は既婚者が結婚関係の外でなす性交渉を意味していて、これは死刑にあたる大罪です。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」(レビ記20:10)。姦通は、単に男女の好き嫌いという愛情問題ではなく、神の前に、ひとつの夫婦と家庭を破壊する行為ですから、非常に重い罪なのです。未婚者が恋情にかられて早まったという過ちとは、まったく異質の大罪です。
 これに対して未婚の男女が性関係をもつことは確かに過ちであり悔い改めるべきことではありますが、大きな罰則はなく、結ばれた以上ちゃんと結婚をしなさいという定めがあります。「まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、その人は必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない。」(出エジプト22:16)。


3 モーセの許容

 主イエスの教えに対して、パリサイ人たちは反論をするように質問を投げかけます。

19:7 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」

 彼らがいうモーセの律法というのは申命記24章1-4節のことです。

24:1 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、
24:2 彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、
24:3 次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、
24:4 彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。彼女は汚されているからである。これは、【主】の前に忌みきらうべきことである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。(新改訳第三版)

 ここは新改訳第二版では、「24:1 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」となっていました。しかし、これは第三版で改められました。ここはヘブル語本文では命令形ではなく、ずらずらつながっている条件文の途中なのですが、読みづらいので区切って命令法で訳してしまっていました。でも、それはやっぱりよくないということで、読みにくくはありますが、原文に忠実に訳しなおしたのです。
 モーセ申命記で「妻が気に入らなければ離婚しなさい」と命じているというパリサイ派の解釈は間違いです。そうでなく、神はお望みにならないことだけれども、それでも離婚してしまう場合にはどうせよとモーセは教えていたのです。モーセは、神のみむねに反してまでも離婚してしまった場合、妻をただ追い出したら妻はその後困るのだから、せめて離縁状を持たせる配慮はしなさい。そうして、その妻が他の男に嫁いだが、また嫌われて出されたり、その新しい夫が死んだとき、元の鞘に戻そうとしてはならないと言っているのです。つまり、男の都合で一人の女性を捨てたり拾ったりするという我がままを戒めることが、モーセの律法の真意です。
 問題は「妻に何か恥ずべき事を発見した」という「恥ずべきこと」とは何かということです。当時の世界で厳格に理解するラビは「恥ずべき事」とは不貞以外のことではないとしましたが、緩やかに解釈するラビは、不貞はもちろんのこと、料理が下手だ、洗濯がきらいだ、などといった何でも夫の気に入らないことなら何でも「恥ずべき事」だと主張したそうです。
 イエス様は、この離婚問題を「創造の初め」に戻って理解すべきだと言われます。イエス様は、「モーセは、男がかたくなで、好き勝手に妻を離別している現状を許容せざるをえなくて許容したにすぎないのだ。離婚をしてはならん。」と教えます。

19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。
19:9 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」

 離婚が許容されるのは、配偶者の「不貞」つまり配偶者が浮気した場合のみです。配偶者が死去した場合には、再婚することは罪にならないことを考えれば、不貞の罪を犯した配偶者は結婚関係において死者とみなされうるといっても良いでしょう。切り離しえない結婚のちぎりを引き裂きうるのですから、不貞という罪は非常に重いのです。


4 独身について

 イエス様が、結婚が神の定めたものであり、女性を軽んじてわがままに振舞う男たちに対して厳しいことをおっしゃったので、イエス様の弟子たちは、「妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」と言ってしまいます。弟子たちもまた、当時の男の価値観に毒されていたわけです。そうしたら、イエス様は最後に独身ということについて教えられました。君たちが考えるほど、独身は簡単なことではないよ、と。

19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。
19:12 というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」

 独身というのは特別なことで、誰もが受け入れることができるわけではありません。では、独身になる人とはどういう人々なのでしょうか。
 一つは、「母の胎内から、そのように生まれついた独身者」です。独身の特殊な賜物というのがあるようで、独身でいても情欲が燃えて、性的な不道徳に陥ることのない精神的・肉体的な賜物が与えられている人の場合です。
 一つは、「人から独身者にさせられた者」については、聖書では二つの例があります。当時の宮廷に仕えるために去勢させられた宦官のような人々のこと。あるいは、親の世話をし続ける必要があるような場合、独身でいなければならないというようなケース。
 そして、もう一つは、「天の御国のために、自分から独身者になった者」です。牧師として一つの場所に腰を落ち着けて伝道活動をする場合には、結婚しているほうが伝道も牧会もよくできると思いますから結婚するのが賢明だと思います。しかし、使徒パウロのように、世界を常に飛び回らねばならないような伝道の使命に召された場合には、家庭を顧みる暇はまったくありませんし、どこで殉教せねばならないかわかりませんから、独身を選択することが賢明であると思います。「それができる者はそれを受け入れなさい」と主イエスはおっしゃいました。
 結婚するにせよ、独身でいるにせよ、肝心なことは、神様のご栄光のために、ということです。キリスト者は、この世の神様を知らない人々のなかにあるように、自分の都合、自分のわがままのために、結婚や独身を考えてはなりません。すべては神のご栄光のために、です。

まとめ
1.結婚は創造主である神の定めた祝福ある定めです。結婚にあたって、その祝福の順序は、まず父母から自立し、結婚し、そして二人が一つになることです。順番をまちがえないように。

2.結婚は神の定めですから、離婚は原則として禁止です。ただ例外として、配偶者の不貞という場合には、離婚申し立てをすることができます。性格の不一致とかいいますが、性格が一致している夫婦などいないでしょう。神様は違っている二人を結び合わせて、赦し合い、愛し合うものとして、天国の雛形を地上に置こうとしていらっしゃるのです。

3.独身は誰もができることではありません。身体的に可能なひとはいる。神の国の福音のために、家庭形成がむずかしい務めに召された場合には独身でいることが賢明であることもあります。・・・いずれにせよ、自分のわがままのためでなく、神の栄光のために結婚をして天の御国のひながたである家庭を建設し、また、神の栄光のために独身でいることを選ぶべきです。キリスト者の人生は、己の欲望のためでなく神の栄光のためのものです。