苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

 未年なので、羊にまつわる聖書の話をしておきたいと思います。信州新町は別として、羊というのは日本ではあまりなじみのない動物ですが、聖書の世界では羊はたいへん身近な動物です。旧約聖書の登場するイスラエル民族のご先祖様にあたり、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムは羊を飼って生活していましたし、旧約時代の英雄であるダビデ王もまた若い日には羊飼いをしていました。主イエスの誕生を最初に天使たちに教わったのも羊飼いでした。
 羊という動物を思い浮かべると、よくもまあ滅びないで生きてきたものだと思います。ライオンや狼ならば牙や鋭い爪という武器があり、そういう武器のないカモシカやシマウマなどは、その代わりにすばらしく速い脚をもっているではありませんか。ところが羊は牙も鋭い爪もなく、走らせたらとってもノロノロしています。しかも、食べれば結構おいかったりするのですから、絶滅しなかったことが不思議です。また、羊は犬とちがって帰巣本能の欠けている動物だそうです。群れから離れると、もう自力で戻ることがむずかしいのです。
 こうしたことから、聖書で、神様は人間を羊に譬えています。人間は牙も爪も速い脚もありません。また、人間は生きる目的もわからず、とりあえず目の前のものに欲望をもって飛びつくという近視眼的な生き方をしている点でも羊に似ています。人間は、本来、神様の似姿として造られ、全身全霊をもって神様を愛して礼拝して生きるべき存在なのです。有名な問答書にこうあります。

問 人のおもな目的は何か?
答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである。

けれども、ほとんどの人はこの崇高な人生のおもな目的を見失っています。「 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ五三:六)と預言者イザヤは嘆いています。攻撃する武器はおろか、身を守る最低限の武器さえなく、しかも、ど近眼で帰巣本能もない羊は、羊飼いがいてこそ生きていくことができます。その羊飼いは、主イエス・キリストです。

    詩篇二十三篇
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、
私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも主の家に住まいましょう。

(通信小海256号から)