通信小海2015年1月号。連載の「ローマ書ところどころ」は、「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」からです。
聖書を開いたことのない読者に、どういうふうに分かってもらえるように、書けるかです。それで、漱石の『こころ』の「先生」のことを書こうと思っています。
『こころ』を初めて読んだのは高校三年生のときであり、これについてもう一度真剣に考えたのは、大学二年か三年の実存主義に関する講義のときでした。ふりかえれば、あの二十歳前後に考えたこと、出会った人と書物というのが、自分の考え方の土台になっているのだと、いまさらながら驚きます。